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祖父の伸びしろ

母方の祖父は私が物心ついたときにはとうにベテランの「おじいちゃん」で、それ以外の生きものだったことなんてないように見えた。
彼にまつわる記憶の大半は、祖母にこっぴどく叱られている姿だ。

一人でうまそうなものを開けては「こういうときは他の人にも一声かけるもんだよ」と叱られ、晩御飯ができたと呼ばれたときに煎餅を開けてはタイミングが悪いと叱られ、歩きながら放屁しては汚いと叱られ、立ち上がって自分の用だけ済ませて帰ってくれば「他の人の用も聞いてやるっていう気の回し方はできないのかい」と叱られていた。
けれど彼が叱られてしゅんとしている場面は一度も見たことがない。
どれほど叱られても「へへぇ、ムツ子はよく気が付くなぁ」と感心し、何度叱られようともそれを忘れ同じことを繰り返しまたきつく叱られていた。
父親を立てる家に生まれ育った父は、母と結婚した当初祖父の立場の儚さにあ然としたそうである。

どうせ言っても直りゃしないんだし、おばあちゃんも怒るのやめればいいのに。

私は幾度となくそう思い、祖母本人にも伝えたものの、「言わなければもっと駄目になってしまう」と彼女は張り切って叱っていた。
常に背筋を伸ばし、よく手入れされた白髪を高く結い上げた祖母と、一人でテレビで野球を見たり新聞相手に将棋を指すのが好きな小太りな祖父は、孫の目にはかなりちぐはぐな夫婦に見えた。

そんな祖母は、私が浪人生だった年の冬にすい臓がんで亡くなった。
まるで狙いすましたかのように私の受験と受験の間に逝ってしまい、受験と受験の間に葬式をした。

受験を終えたその足で祖母を介護していた叔母の家に行くと、命が出ていったばかりの祖母の口元にはショッキングピンクと白の丸っこい円柱がたくさん置かれていた。
まるで紅白のような雰囲気に「めでたい感じにデコったの、誰?」と聞くと、「俺、俺。母さんそのマシュマロ好きだったからさ」と普段ラスベガスに住んでいる叔父が言った。
カジノでシェフをしている叔父は私たちにタコスを振る舞ってくれ、部屋中がスパイシーな香りに包まれた。

「どうせ眠れやしないんだから」と叔父はろうそくの火を絶やさないという役目を買って出たが、夜中に彼と叔母が囁き声で言い争う声が聞こえた。
どうやら叔父が祖母の口からワインを流し込もうとし、その現場を叔母に見つかり怒られているようで、すでに出来上がっていた叔父は「焼いちまったら、もう母さんと一緒に飲めないんだぜ」とごねていた。そりゃそうだけれども。

葬儀の日も、親族はやたらと賑やかだった。叔父は祖母の棺桶から白い花を思い出に持ち帰ろうとして止められ、叔母は棺桶に釘を打ち込む際に藁人形に五寸釘でも打ち込むがごとき勢いでトンカチを振るい葬儀社の人を震撼させ、それにツボった母が「ほほほほほ」と高らかに笑い、坊主の木魚に自閉症の弟がノリノリで踊りだした。
我が身内ながら、なんなんだこいつらは、とひそかに思った。

そんな状況で、祖父はいつも通り淡々として見えた。
よく食べよく飲み、祖母の友人知人が「この度は……」と挨拶に訪れるたびに「おうっ、おうっ」と軽く手を上げて頷いていた。
母たちは祖母亡きあとの祖父の生活を案じたが、彼は子どもたちとの同居を固辞し、住み慣れた埼玉の平屋で一人暮らしをすることとなった。

少しして祖父の家を訪ねた母は、祖父が信じられないほどの生活力を身に着けていたと驚いて帰ってきた。
炊事、洗濯、掃除。
それまで祖母が一人で担ってきたことを、祖父はかなりマスターしていたらしい。
祖母が入院したり、叔母の家に移ったりしている間に、一人で暮らす準備をしていたのかもしれない。
それまで料理なんてしたことがなかったはずなのに、かぼちゃの煮物やカレーを作ってくれたと母は衝撃を受けていた。

その数年後、祖父はさらなる進化を遂げた。
彼はその日に食べるものを作るだけではなく、きゅうりを漬けたり、庭でとれた梅を使って梅干しまで作り始めたのだ。祖母ですらやっていなかったのに。味噌を作ったりぬか床をやっている私だって、梅干しは漬けたことないのに。
一度床を作ってしまえば半永久的に使えるぬか床とは違い、梅干しは毎年収穫して塩漬け、天日干しとかなりの工程が必要なのに。

祖父の梅干しは舌で押せばほぐれるような、そんな生やさしい梅干しではない。弾力のある身がきりりと詰まった、酸っぱさとしょっぱさが脳天を突き抜けるような、いかにも自家製の梅干しである。けれど、この容赦のない酸っぱさが癖になる。
「おいしい!」と喜ぶと、彼は私たちが遊びに行くたびに自家製の梅干しをジップロックに詰めて持たせてくれるようになった。

気が使えないとあれほど祖母に叱られていた祖父が!

スーパー銭湯で祖父の90歳を祝ったときには、彼は十五穀米と白ワインソースがけのサーモンプレートを完食した。
「この赤飯シャケ定食うめぇな!!」としきりに叫び、鮭にかかったソースを舐めて「これはただの塩焼きじゃねぇな。どうやって作ってんだろ」と呟いた。
私の記憶では祖父は昔から食いしん坊だったけれど、作り方に興味を持っているところは見たことがない。
作り方に興味を持つということは、自分でも作ろうとする意思の表れだろう。
ひょっとしたら、レシピ本をあげたらおしゃれ料理にもチャレンジしてくれるかもしれない。

祖母が亡くなってから、十年が経った。
目覚ましい進歩を遂げ続ける祖父を見ながら、私は思う。
誰よりも祖父の伸びしろを信じていたのは、祖母だったのではないかと。
あれほど根気強く叱り続けるのは、祖父の伸びしろを信じていなければ無理だろう。
そんな話を母にしたら「ストレス発散していただけじゃない?」と笑われたので、真偽のほどはわからない。
祖母が生きているうちから家事をやってくれていたらよかったのにと思わないでもない。
けれど、積極的に手伝ったら手伝ったで祖母のこだわりを邪魔して叱られていただろうから、このタイミングで覚醒してくれてよかったのかもしれないとも思う。
結局時間は巻き戻らないし、生きている者は前に進むしかないのだ。

祖父は今年、92歳になった。
時々デイサービスに通っているらしい。
見せてもらった写真には、「お誕生日」と書かれたプレートを持ったおじいさんの隣に祖父がでんと立っていた。「お誕生日」のおじいさんよりも、明らかに祖父のほうが目立っている。
「この人は誰?友だち?」と聞くと、「知らねぇじいさんだ。俺がそのへん歩いてたら急に『一緒に撮りましょう』ってとっ捕まったんだぁ」と言う。
祖母がいたら「“知らねぇじいさん”なんて言うんじゃありません!」とすかさず叱責が飛んだことだろう。
私たちはただ静かに、「知らねぇじいさん」と繰り返した。

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