見出し画像

「先生」と「ワタシ」

「学校」という現場に身を置いて10年目の今年。
自分で言ってびっくりした。10年かぁ。10anniversary。
アーティストなら全国ツアーとか回っちゃうような年。

あっという間だった。
何においても続かない、のめり込めない質の人間で。
そんな私が気づいたら10年なんて。
「先生」は、もう、私にとっては、仕事というより、構成要素の一部で、これ無しには自分をどう説明すればいいかわからない。
そんな風に、一緒に歩んできたもの。


公立の小学校から、葉山にあるオルタナティブスクール「ヒミツキチ森学園」に来て2年目になった。
出たくなかった前任校。一緒に卒業したかった当時の5年生。
異動の年次で、泣く泣く出た。ぎゃんぎゃん泣いた。
「どうせ出なきゃいけないんだったら!!」
と、次の修行先は自分で決めたくて、自分で決めた。
嘘。受け止めてもらった。それが今のヒミツキチ。


「大好きなこの子達が、どうか10年後も幸せに笑っていてほしい。」
「ただただ願うことしかできないなんて、そんなの嫌だ」
「どんな幸せのカタチだっていい。自分で幸せに気づけて、つくれる人になってほしい」
「そのためには、誰にだってもし必要なことがあるとするなら、いろんな自分に出会った上で、受け止めた上で、自分を好きでいられることなんじゃないかな?」
「だとしたら。私は自分を大好きって叫べる大人に、この子達がなれるようにすることを”教育”と呼びたい」

どっぷり自分を知って、向き合って、嫌って、好きになって、みんなとハッピーをつくりながら生きる。
・・・そういうことを子どもと一緒にやりたかった。
私も、そういうものをつくる1人でいたかった。
ヒミツキチを創るPLAYFULのちほやん、みっちゃん、あおちゃんは、ちゃんと人間だった。
この人達の中で、修行をさせてほしい。オルタナのカリキュラムに触れたかったわけじゃない。人に惚れて、仲間に入れてもらった。


去年1年。
【自分のどまんなか】を謳うヒミツキチ。
「先生」という皮を被った生き物だった自分に気づいた。
スキルだと思っていたもの。信念だと呼んでいたもの。
全部ぜんぶ、サラ地になった。もうほんと、まっさら。笑っちゃうくらいに。
あの工事で出てくるような車、ブルドーザー。
私っていう人間を見事に整地しちゃう感じ。

「人間」を生きることって甘くない。
出会いたくない、見たく無い自分にいっぱい出会った。
でも、今まで支えてくれていたワタシたち。
「今までありがとう」って手を離した子も、「はじめまして。ここに居たのね」って新しく、でも、懐かしい子もいた。


そんな風に足掻くワタシを。ヒミツキチの大人は、子どもは、
「人間らしいじゃない」
と、笑って、ただただ今のワタシを私で居させてくれた。
それがどれだけ難しいことか。
学校と呼ばれる場で。人と人が関わる場で。仕事という場で。子どもの前で大人という”立場”が見えてしまう場で。


人が自分を髄まで見つめられる場所って、「ジャッジ」が無いところなんじゃないかなって。
自分の言葉とか、行動とか。その選択を「良い」「悪い」の2色で色づけない。
面を白く見て、面白がる。
わかった気でフィルターを通すんじゃなくて、どんな色なのかを一緒に探してくれる。私が納得のいく色が出るまで待ってくれる。
だからこそ、自分で自分の色を見つめていける。いくしかない。
響きはいいけど、でもこれって、結構簡単じゃない。


それを積み重ねるとね、だんだん自分って「たかが自分」って笑えてくる。
「自分で」「ひとりで」なんて、そんなの、たかが知りすぎてる。
結局誰かが、優しさとか、あったかさとか、明るいとか、
動きだせるエネルギーをお裾分けしてくれてる。
私は受け取ったボールを隣に手渡していくだけ。
「何を」を選ぶのは私だけど、動くためのガソリンはもう誰かがちゃんと、くれている。
「頑張るためのエネルギー」を、自家発電なんてしなくていい。


「自分のどまんなか」
って、きっと、自分を「個」で見て「孤」で終わらせることじゃない。
自分自身を見ていると、だんだん、巡りの一部の点に見えてくる。
「ひとりじゃない」って気付けることなんじゃないかなって。
だからこそ、自分の点で、巡りを止めないように。
それは、自分が人として地面を固めて、しっかり立っていられるから。
「個」で在れるからこそ、巡らせることができる。
そういうあったかい世界の中に自分を置けるようになることって思う。

結構しっくりきたのがね、

『光を見るためには目があり、音を聞くためには耳があるのとおなじに、
人間には時間を感じとるために心というものがある。
そして、もしその心が時間を感じ取られないようなときには、
その時間はないもおなじだ。』

ー モモ/著ミシェエル・エンデ

の、一節。

本当に今の時間が、自分のものだと言える。
そんな生きた時間であること。心が感じられること。
自分という人生の時間を、心が感じてほしい。

「先生」っていうのは、「先に生かす」者。
巡りの巡らせ方を、共に近くで、一緒に探して、手渡して、味わう人なんじゃないかな。決して止めない人。
そんな人でありたいなって思う。
私はそれを一生やって死んでいきたいって思う。


私は、こんなの、本で読むだけじゃ、わかんなかった。
削って削って、荒療治みたいな。
あったかい縁側のある校舎で、1人の人間として生きるを共にする子ども達と、大人たちと、親チームがいる日常の中で、修行をしたからわかったこと。


きっと1年後には、
この自分の書いた記事を見て、全然違うことを感じるのかもしれないな。

そんな変化を、自分のも、誰かのも、
面白がっていきたいな。



あったかいめぐりの中で「ひとりじゃない」って感じられた。
そんな今日を忘れたくなくて、書いた日記。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?