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雑記・寂しさについて

ご無沙汰しています。ずっきーにです。
前回書いたのは1月か。
久しぶりに見返したら人に見せたくない記事がいくつかあったので非公開にしたりしました。今日の投稿もそのうち非公開にするんだろうけど、誰かに聞いてほしいのでとりあえず書きます。

さて、わたしは今日突然気付いたんですが、
寂しい。寂しいんですよ。今日はそのことを書きたいと思います。

【前談】
わたしは読書が好きなんですが、一昨日吉田修一の「悪人」を読みました。あらすじとしては(箇条書きにすると情緒ゼロだな)、
①土木作業員として働く祐一は出会い系サイトを通して保険会社で働く佳乃と出会う
②佳乃は祐一のことを人柄や職業からすごく軽んじている
③いろいろあって祐一は佳乃を殺してしまう
④佳乃を殺害した後、祐一は出会い系を通じて光代と出会う。祐一と光代は互いに深い孤独を抱えていて、互いを強く必要とするようになるが・・・
という感じ。とてもいい本なので未読の方はぜひ読んでみてください。

で、この本の一番大きなテーマはタイトルの通り「本当の悪人とは?」みたいな部分だと思うんですが、それとは別にすごくたくさんの要素が盛り込まれていて、その中でわたしにすごく刺さったのが「孤独について」でした。

わたしは現在パートナーはいませんが、大好きな友人もたくさんいるし、その友人たちとも気軽に会える距離にあるし、家族も健在だし、基本的に自分のことを孤独だとは思っていません。実際、人間関係にはすごく恵まれていると思います。なぜか独身パートナーなしの状態で人生を楽しくやっている人も多くて心強いし。

でも、悪人を読んで「あ、これ、知ってる」と思ったんですよ。
作品中にこんな文章があります。

『寂しさを紛らわすためだけに、生きていくのはもううんざりだった。
寂しくないように笑っているのはもう嫌だった。』
『今の世の中、大切な人もおらん人間が多すぎったい。(中略)自分を余裕のある人間っち思い込んで、失ったり、欲しがったり一喜一憂する人間を、馬鹿にした目で眺めとる。そうじゃなかとよ。本当はそれじゃ駄目とよ。』

前述のとおりわたしは身の回りにたくさんの人がいてくれて、すごく恵まれていると思います。だから正直寂しがってはいけない、寂しがっては周りにいてくれる人に失礼なんじゃないかとさえ思う。
でも、やっぱり自分にとって特別な人がいないのって、きっと寂しいんだと思います。寂しいと思ったときに寂しいと言いたい誰かがいなかったり、誰かに会いたいと思っても会いたい「誰か」が誰でもなかったり。そういうのを孤独って呼ぶんだなと思って。わたしの中にもあるなあと。

パートナーがいるからと言って孤独から抜け出せるわけではないとも思います。誰かと一緒にいても完全にわかりあえるわけではないし、寂しさが消えることはないから。それでも、この人と一緒にいたいって思えるのはすごく心の支えになるんだろうな、ていうか、なってたよなってぼんやり思い返したりもしました。

で、話はまだ続くんですが、わたしは一時期マッチングアプリをやっていたんですね。そのときのわたしのスタンスは「恋人というのは、この人と一緒にいたいと思う人ができて、相手もそう思ってくれたら成立する関係性であって能動的に勝ち取りに行くべきものではない」って感じだったんですね。今もまあこの考えはあんまり変わっていなくて、がむしゃらに頑張れば獲得できるものだとも思っていないのですが…縁というか巡り合わせの部分が大きいんだろうなという感じで。
「誰でもいいから」は相手に失礼な考え方だと思っているし、自分がそういうふうに思われるのも嫌。でも、それくらい切実な孤独がこの世にはたぶんあるんですよね。もちろんそうやって訪れる幾つもの出会いの中で一番強い縁が手元に残っていくんだろうけど、入り口としての「誰でもいいから」をわたしは心のどこかで軽視していて、その奥に切実な孤独があるかもしれないことを考えたことが無くて。そういうことに初めて気付いて、気付いてみたら自分の中にも底の見えない寂しさは確かにあって…

というのが昨日今日の大きな心の流れで、抱えきれなくなったので書いた次第でした。

自分の寂しさや孤独とちゃんと向き合ってあげないといけない頃合いなのかもしれない。

相変わらずしっちゃかめっちゃかですが、思ってることわりとかけたと思うからまあいいや。Twitterで寂しいとか書いたらスパムアカウントめっちゃ来るでしょ。だから嫌だったんだよね。言いたいことも言えないこんな世の中じゃpoison・・・

最後まで読んでくれてありがとうございました。


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