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やさしさとやわらかさ

やさしさについて考えている。
やさしくなりたい。やわらかくなりたい。

やさしいねと言ってもらえることがあるが、
別にわたしはたぶん本質的にやさしくない。
やさしい自分とやさしくない自分がいるとしたらやさしい自分の方が好きだから、やさしい自分に近づこうとしているだけだったりする。
もちろん誰かにやさしくできたときに相手が喜んでくれたり、相手の心が少しでもやわらいだりしたら嬉しいのでそういう意味ではまるっきりの嘘ではないと思う。でもわたしの思考の最短経路に浮かぶものの大半はやさしい選択ではなくて、もっと身勝手だったり冷ややかだったりする選択であることが多くて、しかしこれではだめなんだ、と思って意識的にやさしい選択をするということが多いだけだったりする。偽善上等と思いつつ鏡を見て真顔になったりする。おまえそれでいいのかよ。

この話を進める前に「やさしい」について定義しないといけない気もするが、人によって千差万別だと思うので詳しくは触れたくない。とはいえ一応断っておいた方がいいと思うのでざっくり言うとまあなんだろう、わたしにとっては「相手を理解しようと歩み寄ること」が一番大きな部分な気がする。自分と違う考えや視点や背景を、ありのままで受け入れようとすること。汲み取る努力を惜しまないこと。否定しないこと。やわらかくあること。

いろんなひとのやさしさややわらかさに影響されて、助けられて生きてきたと思う。わたしが生来抱え込んできた思想や主張はおそらく結構過激な部分を含んでいて、でもそれを出すことによって人を傷つけたり、あるいは敵を作ったりすることも少なくないであろうことを知っている。だからできるだけ穏やかに抑えられるように、または不用意に出さないように、意識的に過ごしてきた。周りのひとたちのやさしさはある意味でそのロールモデルになっているというわけだ。わたし自身がわたしの思想の強さに辟易しないためにも、周りから受け取るやさしさはとても大きな意味合いを持っている。

ところが、ですよ。最近パートナーができ、いろんな話をするようになった。とにかくものすごくよく喋る人で、思想や考え方的な話も多い。その人はとても頭が良くて合理的で、無駄のない思考をしていると思う。すごいなあと思う、尊敬している。美しく整頓されて、きっちりと展開されていく意見を前に自分の思想を振り返ってみる。するとどうだろう、やわらかくあることを大切にしようと思って生きてきたはずなのに、出てくるのはなぜか角張ったものばかりなのだ。わたしは自分の角が恥ずかしい。悲しい。他人の角は気にならないし、そういう考えもあるんだなあとしか思わないのだが、自分の角のことが怖い。角を持つわたしは嫌われるんじゃないかとか疎ましいんじゃないかとか思ってしまうし、第一そういう自分が根本的に「好きではない」のだ。別に嫌いじゃないけど、好きにはなれない。ちょっと萎える。そういう面が最近よく見えて、自分のことがすごく悲しい。

と同時に、わたしの周りに存在してきたたくさんのやさしさの輝きを思う。外界からも自分の内面からも、わたしのことを知らないうちにたくさん守ってきてくれたみたいだ。周りから今まで受け取ってきたあたたかさを、自分だけでもきちんと生産できるようになりたい。そういうことを、考えている。


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