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”伝統”という言葉に感じた違和感

中学2年生か、中学3年生の頃だったと思う。
正確なきちんとした時期は忘れてしまったが、それは学年集会での出来事だった。
学年主任の先生が前に立って話をしていて、最後にこう付け加えた。
「次回の集会からは、先生などの目上の方が前に立ってお話をされるときは、お話の始まりと終わりに必ず正座をするようにしてください。怪我をしている人、体調の悪い人は無理しないでください」
続けて、先生が言った。

「新しい”伝統”ですので」

この言葉を聞いて、またか・・・、と正直思っていたものである。
私の通っていた中学校では、耳が腐るほど”伝統”という言葉が使われた。
我が校独自の伝統、清掃の伝統あいさつの伝統、朝の伝統、新たな伝統を創ろう…。
あまりにも軽々しく、まるで物事を綺麗に、都合よく正当化する為かのように伝統、伝統と言うので、私は徐々に違和感を覚えるようになった。
もちろん、あいさつは大事だし、清掃だって大事である。
しかし、その”伝統”という言葉を用いて、時に理不尽な要求やルールが正当化されていくという現状に、私は違和感を抱かざるおえなかった。
中学2年生の春の出来事である。
学校側が入学以来、生徒の私たちに提示してくる校則の理不尽さと無茶苦茶さに耐えられなくなった私は、行動を起こした。
もちろん、ある程度目的が理解できる校則だって存在していた。
スマホを持ち込んではいけない、お菓子を持ってきてはいけない、など。
しかし、校則は生徒たちの下着の色まで指定し、髪型と髪を結ぶ高さまで厳格に決めた。
いったい、下着の色や髪型や髪の結ぶ高さが、どれだけ勉強の出来不出来に影響すると言うのだろうか。
長い時間生徒手帳と向き合ってみても自分の力だけでは答えが出せなかったため、私は先生たちに聞いてみることにしたのである。
傍から見れば面倒くさい生徒、面倒くさい人間ではあっただろう。
が、白い下着に特定の髪型、結ぶ位置まで決められて、かなり不愉快な気分になっていた私にとっては、自分をこんな不愉快な気分にさせる校則を守ることが、いったいどんな有益なことに繋がっているのかを知りたかったのだ。それを知ることが出来れば、自分の中の不愉快でモヤモヤな感情は解消されるだろうと信じていた。
しかし、返事はなかなか理解し難いものだった。
”伝統”として決められているものだから、というわけである。
どうやらそれが”伝統”であれば、生徒の下着の色を決め、髪型を決め、結ぶ位置を決めたりなど、理不尽で無茶苦茶なルールがあってもいいらしい。
正当な理由などない。そのルールを守ることが、どれだけ勉強の質を高め、学力向上に役立つなんかなんて、説明しなくたっていい。
だってそれは、”伝統”だから。
そう言われても、めげずに正当な理由を探し求めたが、見つかることはなかった。今、誰か説明できる人がいるなら、大学生になった私に説明して欲しい。

もちろん、先生たちだって死ぬほど忙しかっただろうし、そんな中で私のような生徒のための返事と言えば、これくらいしか無かったのかもしれない。
しかし私はその時から、”伝統”という言葉を使ってしまえば、集団のなかにおける理不尽で無茶苦茶なルールやしきたり、決まり事がある程度まかり通るのだと知った。
きちんと正当な理由があるもの、まったく理由もなく理不尽なもの関係なく、とにかく全ての決められたルールやしきたりを、”伝統””伝統”と言っては美化しまくり、そのルールやしきたりの存在理由すらも考えることも一切せず、”伝統”!と声高らかに誇りまくる学校に、いつしか嫌悪感を覚えるようになっていったのである。


この文章を書いていたら、このニュースが私のスマホに飛び込んできた。
昨年9月に25歳だった宙組の劇団員(タカラジェンヌ)が自殺した宝塚歌劇団の問題について、歌劇団の親会社阪急阪神ホールディングスの会長、角和夫さんが歌劇団理事を辞任するという方向で最終調整が行われているというニュースである。
今年で110年目を迎える宝塚歌劇団と、今までこの文章の中で書いてきた”伝統”には、深い関係があるように私は思える。
世界を探し回っても、いまだにあれだけの規模で(宝塚大劇場と東京宝塚劇場の東西ふたつの専用劇場を構え、年間300万人近い観客を動員する)、少女歌劇という類まれな文化を今に生かす場所は、宝塚歌劇団だけだろう。
そんな歌劇団を守っていくためには、それこそ”伝統”と呼ばれるルールやしきたりが必要であり、今までもそれらが宝塚の舞台を守ってきたのかもしれない。
ただ、その”伝統”というものをあまりにも大切にしすぎるあまり、なにか大切なものを今の宝塚は見失ってしまっていると思うのは、私だけだろうか。
よくよく考えれば理不尽不合理で、時に人の精神や肉体を追い詰めてしまいかねないルールやしきたりが、”伝統”という言葉で美化されてすぎてはいないだろうか。
”伝統”という言葉であまりにも美化されたので、そのルールやしきたりが存在する理由を考えることなんて一切ないまま、ただそれらをを遵守するということが目的になっているのではないか。その結果、人の精神や肉体が追い詰められてしまうという現状が、あるのではなかろうか。
そもそも、そのルールやしきたりは本当に”伝統”で、諸先輩方が大切に受け継いでこられたものなのだろうか。
本当は昔から存在していたものなのではなく、誰かが自分のために都合よく勝手に解釈して作り替えたルールが、いつの間にか”伝統”とされていった経緯もあるのではないだろうか。

私が在籍していた、創立70年にも満たないただの公立中学校でですら、人の精神や肉体を追い詰めるほどのものではなかったにしろ、理不尽で不合理なルールやしきたりが”伝統”という言葉で正当化され、その存在理由すら考えられないという状況があったのである。
日本のどこにでもあるようなただの公立中学校でそうなのだから、110年という長い歴史を誇り、世界で唯一無二の宝塚歌劇団でも、そのような状況があるのではないかと私は思う。

もちろん、正当な理由があって存在するルールやしきたりを”伝統”として受け継いでいくのは大切なことである。
しかし、正当な理由があるもの無いものに関わらず、存在するルールやしきたりを全て”伝統”だとして受け入れて内面化するあまり、そのルールやしきたりが存在する理由を考えることすら忘れてしまっては、いつの間にかその全てをひっくるめた”伝統”によって、誰かの精神や肉体を追い詰めることになりかねないのではないのだろうか。

”伝統”。
大切で、重要なものである。
しかし、その”伝統”という言葉をあまりにも全てのものに使いすぎると、同じくらい、もしくはそれ以上に大切で重要な何かを、果てで失ってしまう可能性があるということを、忘れてはならないと思う。











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