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『オッペンハイマー』と忘却できないもの


 クリストファー・ノーランの映画を鑑賞する度に、スタンリー・キューブリックを連想してしまうのはなぜだろうか。
 家族の交歓、そして相対論を超える愛をテーマにした『インターステラー』は、明確に『2001年宇宙の旅』の無機質な人間像への回答だろうし、『オッペンハイマー』の扱う赤狩りの描写、そして科学考証への誠実さは、ブラック・コメディーである『博士の異常な愛情』を念頭に置いているのではないか。
 確かにノーランがキューブリックへの敬意を公にしている以上、二人の監督を対比させるのはごもっとな批評に思える。
 ただ、写真家出身であるキューブリックの絵画的な画面、たとえば意識的な焦点や、モノクロの多用も含めた色彩へのこだわりは、『ダークナイト』トリロジーと比べるまでもない。やはりノーランの画面には、この作家がIMAXのパイオニアであることも手伝い、写真や絵画の静かな美しさを求めようもない。
 IMAXの大画面に立ち昇るように映し出されたきのこ雲は、特撮的な迫力をたたえていたものの、美術的に毒々しいものではなかった。
 それに、新技術の功罪と言えば良いのか、IMAXと35mmフィルムの矢継ぎ早な切り替えには、すこし疲れてしまった。IMAXの映像は回想のシーンで使うには鮮明過ぎて、本作に限らず、まだ様式美の確立していない方式に思えた。35mmの映像にはフィルムグレインの効いた味わいがあった。
 どこに視点を持って行くか、戸惑ってしまうのだから、僕はIMAXに向いていないらしい。
 もっとも特撮として一級だったことは声を大にして言いたいと思う。なおかつオッペンハイマーの苦悩に迫る描写も見受けられ、至れり尽くせりだった。
 予備知識なしに観に行ったので、緻密な赤狩りの描写に驚かされた。正直、赤狩りのきめ細かい描写によって、この映画はだいぶ救われたのではないか。
 科学者の政治参加は凄まじく、オッペンハイマーの妻・キティも運動家だった。彼女の最初の夫はスペイン内戦で戦死している。劇中では描かれようもないが、スペインの戦地にヘミングウェイも、ジョージ・オーウェルも向かい、詩人のロルカは銃殺された。組合運動、実現されるべき革命という大きなうねりに、科学者のオッペンハイマーも関与することになる。が、彼はただ知識欲を満たそうとするようで、無邪気だった。しかし、無邪気はもっとも激しい悪に通じる。
 愛人とセックスしながら『バガヴァッド・ギーター』を読み上げる場面は陳腐だったけれど、ここからオッペンハイマーの悪が描かれれば、この映画にはもっと暗い奥行きが出たのではないか。
 オッペンハイマーは良心と探究心の間で揺れているというより、キャラクターとしてぶれがあるように思えた(これが史実だとすれば、必ずしもノーランの責任とは言えないかもしれない。ただ、映画である以上、脚本の巧拙は問われなければならない)
 クリストファー・ノーランは、あるテーマに誠実であるほど、対象を安易なエンターテインメントの水準に落とし込んでしまう癖があるようだ。特に終盤に描かれる反逆罪への追及のシーンは、迫力はあったものの、オッペンハイマーの免罪に焦点を当てすぎている。法廷闘争のような面白みはあったが、これでは、科学者たちは政治利用の被害者のようだ。
 キューブリックの描くような狂気、反ヒューマニズムを通しての、風刺的な凄みは伝わってこなかった。迫力はあったが、悪意が足りなかったと思う。
 繰り返しになってしまうが、二人の監督を比べて批評することに必然性は感じない。ただ、巷で言われるようにキューブリックという補助線を引くと、あくまでエンターテインメントであることが、ノーランの作家性であり、また限界点であることが見える。
 そして本作はもう一つの限界点、この時代に原爆を描くしがらみからも自由ではなかった。
 本邦で原爆を扱った映画が、物議をかもすのは当然の反応かもしれない。アメリカにおいてもセンシティブな題材という認識があるようで、両国の配給社は太平洋をはさんで黙り込むしかなかった。
 米メディアに、わが国には『太陽を盗んだ男』という傑作(沢田研二主演。化学教師が原発から核燃料棒を強奪、原爆を作って日本政府を脅す、という映画)がある、と誰かがこっそり教えるべきではないか。
 とはいっても、映画は公共性の強いメディアで、いたずらに被害者感情を煽るのは控えるべき、という意見が出るかもしれない。とすれば、『オッペンハイマー』がオスカーを取った後になって、日本公開が決定されたのはどういうことなのか。
 この時系列を考えてみると、日本公開のめどが立たなかったのは、倫理や歴史認識によるものというより、チキンレースの結果なのだろう。さらに問うべきは、映画の公開を歴史認識によって中止にしたり、延期にできるなら、それは映倫的なファシズムではないかということだ。
 かつて小谷野敦という文芸評論家が「原爆ファシズム」なる造語を述べて、原爆文学を揶揄したことがあった(この造語の初出は作家の中上健次だったかもしれない)
 意地悪な物言いには違いないだろうが、ある歴史的事件への見解が、あらかじめ決められた結論でなければならないのも、確かに恐ろしい。
 原爆投下は悲劇である。ただ悲劇に対して多角的な見方をできなければ、悲劇はただの言い伝え、先入観になってしまう。
 実は『オッペンハイマー』を観ながら、もっとも念頭に置いたのは、『博士の異常な愛情』でも、『太陽を盗んだ男』でもなかった。子どもの頃に学校で観た、教材のアニメーションだった。まばゆい光のなかで、広島の無辜の人びとが燃えていく手書きの画面。子ども心にトラウマを負ってしまったのだけれど、同時にB−29から原爆を投下した兵士の物語も知りたいと思った。エノラ・ゲイの搭乗員について書かれた本を手に取り、さらに傷ついてしまったが。
 今となっては、原爆投下が人類史の悲劇であるならば、被害者だけでなく、加害者とされる人にとっても、それぞれにまつわる悲劇でなければならないと考えている。多国間で歴史認識が一致するはずもなく、それがかつての敵国同士であればなおさらだろう。ただ、同じ問題意識を共有することは不可能でない。『オッペンハイマー』は映画というメディアを通して、広い地域に問題提起を投げかけた、稀有な作品だった。
 色々とこき下ろしてきたが、褒めるところもあって、小気味良い台詞やカット割りは、まったりした芸術映画には出せないスピード感があったし、上映時間の長さを感じさせなかった。ただ、実験用の原爆の場面に差し掛かった頃、僕の膀胱も炸裂しそうだった。それでもクリストファー・ノーランの最高傑作と思う。
 それにしても、スタンリー・キューブリックの映画を観て、不謹慎極まりないと青筋を立てる人は少ないだろう。キューブリックの映画は忘却されることもないが、もはや古典だからだ。
 『オッペンハイマー』で描かれるテーマも、生々しい波紋を呼ぶものではなく、批評的な議論の対象となることを願っている。


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