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乳がんサバイバーの私が母の日に思うこと

埼玉県在住54歳の乳がんサバイバーずこちです。

浸潤がん/ホルモン感受性 なし/HER2 3+/Ki67  40%
腋窩リンパ節転移あり
2021年手術、放射線治療
2022年 分子標的薬完走
現在は経過観察中。
愛する夫は慢性骨髄性白血病歴12年です。

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では今日のnoteです。

乳がんサバイバーの私が母の日に思うこと

今日は母の日ですね。
私は2019年に母を亡くしています。
恥ずかしながら、そんなに仲の良い親子ではありませんでした。

母は弟を溺愛していたし、
発達障害(自閉症でアスペルガーでした)の私はとても扱いにくく、
私の言動の一つ一つが母のストレスになっていました。


母を亡くしてから2年後、
私は乳がんがわかりました。


その時思ったのは
「母がいたら心配しただろうから今でよかったな」
ということです。


母は20年以上もパーキンソン病を患い、
彼女の住む静岡県から
私に住む埼玉県へは車を使っても来ることはできませんでした。


私の家の庭には母の大好きだったヤマモモの木があり、
食べさせてあげたいなと思いつつも
ヤマモモの実はベタベタしていて
なんとなく獲ってから時間が経ったものは嫌な感じがしたし、

母も
「昔は美味しいお菓子なんてなかったから美味しかったのかも」
なんて言っていたから

それはそれは大量にヤマモモの実がなるのですが
母には送りませんでした。




そして、毎年たくさんの身をつけていたヤマモモの実は
母が亡くなった年から一つも実をつけなくなりました。



非科学的なことは全く信じない私ですが
去年は埼玉の自宅の中で母の存在をやたらと感じました。


家の中で母の気配がするのです。
普段夢を見ない私ですが、母の夢をたくさん見ました。
亡くなって何年も経つのになんでかな?



そして、気配が強くなってから1ヶ月くらいして
突然、母の気配は嘘のようになくなった。



あんなに毎日母のことを思い出していたのに
1度も思い出さない日も出てきた。



なんだかそれが寂しくて
私はずっとしまい込んでいた母の遺影を出すことにした。




私の部屋に母の遺影を飾り、
毎朝、お茶を淹れることにした。


お線香はなんとなく嫌で
お香を焚くことにした。
紅茶が大好きだった母にチャイラテのお香を選んだ。


毎朝、夫と私のお茶を淹れるときに母の分も淹れるようになった。
そして毎朝、母の遺影に話しかけるようになった。


私の嫌がることも、私を否定することもしない遺影の母に
好き勝手に朝の挨拶をすることは私の習慣になった。




仲は悪かったが、私は母の誕生日と母の日は
お花やプレゼントを送っていた。

母は私の誕生日を覚えてもいなかったが
もうそういう期待はしていなかったので
私は母の誕生日と母の日を祝った。



母が亡くなってから
白いカーネーションを買うことが嫌で
母の日に花を買わなくなった。



今年は遺影があるし、母の日に何もしないのも落ち着かなくて
花を買うことにした。


芍薬を買おうと思ったけど
近所の花屋さんには無かったので諦めた。


そのまま食材を買いに近くの農産物直売所に行ったら
野菜売り場の隅っこに
【花束300円】と書いてある花が芍薬だった!!


不思議な気持ち。



母はもういないので
私は母に買った芍薬を部屋に飾り
愛でることができる。


花の隣に母の遺影がある。



産んでくれてありがとう。

大切に育ててくれてありがとう。

と、花を見るたびに思う。



40歳過ぎて母を亡くした私でさえ、こんな感じだ。


親子関係も良好で
まだ24歳と20歳の娘たちを残して
私は死ぬわけにはいかない。



父親もいないし(今の夫とは養子縁組はしていない)
親戚もほとんどいない状態なので
娘たちには私しかいないのだ。



長生きしなければ。



きっと母の近くに行けば、
また喧嘩になるだろうから
私はまだまだこちらの世界で頑張って起きてゆこうと
改めて思った母の日。





ではでは
本日も最後までお読みいただき
ありがとうございました。





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