多数派少数派という見えない壁

※2021年7月31日に執筆したものを2023年1月4に再掲しています。
私自身にも多少の変化はありますが当時はこう考えていましたということで。

私は発達障害と呼ばれているASD(自閉症スペクトラム)・ADHD(注意欠陥・多動症)とパニック障害の診断を受けています。
またセクシャルマイノリティでもあります。

読んでくださった人がひとりでも自分と違う誰かの存在を知ってくれたらいいなと思っています。

自分が人と少し違うかもしれないと感じた最初の記憶は4歳の時です。
でもずっとずっと苦手なだけ、うまくいかないだけ、私がダメなんだと思ってきました。
障害と認めてもらえたら楽なのに、なんで出来るはずなのにできないなんだろうと思っていた時期もあります。

死のうと思って行動を起こしたこともあります。
7歳のときに当時住んでいた場所の屋上まで上がって、地面を見下ろしていたことは今でも鮮明に覚えています。
幼い時は自分が人とどう違って、うまくいかないのかもわからないのでいじめられたりもしました。
特に中学1年生のときはひどくて、石を投げつけられたりとか典型的ないじめを受けていて、翌年そのフラッシュバックをきっかけにパニック障害の症状が出始めてしまいます。

性別違和の最初は小学校入学時のランドセルだったように思います。
なんで赤と決められているのか理解できなかった。
だんだん女の子の服を着ることに違和感を覚えていって、中学高校の制服はずっとなんとなく嫌だと思いながら着ていました。

それでも色々ありつつも高校生までは大きく誰かに助けてもらう必要もなく、卒業することができて、浪人生活を経て、第一志望の大学に合格できました。
病院に行こうと思ったのは浪人時代で、結局大学入学時の健康診断で過呼吸の発作を持っていることが引っかかって、その後授業中に発作を起こしてしまい、紹介状をいただいて病院にかかることになりました。
そのおかげで検査をして、診断を受けることになります。
でも診断名をきちんといただくと決めるまでここからさらに数年かかってしまって、その時間の意味を今でも考えてしまいます。

大学に入ってから発作の回数も増えてしまって、障害やセクシャリティの悩みも増えて単純に辛いと思うことが多くなりました。
うまくいかないことも高校生までに比べてすごく多くなってしまっていました。
それでもまだ周りと同じようにできると信じてしまっていたんですよね。
できないと口に出すことが怖くて難しくて、この時期にはたくさんの人に迷惑をかけていました。本当に申し訳なく思っています。

当たり前のように留年して、ようやく診断名をいただくことに決め、他の方のサポートを受けることにしました。
それでもずっとずっとなんで周りと同じようにできないのか苦しかった。
自分なりにどれだけ頑張っても並べないことが嫌で仕方ありませんでした。
昨年くらいから少しずつですが、周りの助けもあって、できないとできるの線引きをしていけるようになって、学部7年目でようやく4年生になることができました。
私ひとりでは絶対にできなかったことです。
助けてくださった、関わってくださったみなさんひとりひとりに心から感謝をしています。

ここで私のセクシャリティの話を。
セクシャリティは人の数だけあると私は思っています。
私は生まれた身体的性を変えたいとは思っていません。
自分の心の性はどちらでもあり、どちらでもないと思っています
恋愛対象はわかりません。
ネイルもメイクも大好きだけど、基本的にはメンズ服を着たいです。
これが多数派だとは到底思えないけど、別にそれでいいかなと今は思えています。

ASDもADHDもパニック障害も全部大切な私の一部です。
何が欠けても今の私はいないので全部飲み込んで受け入れて生きていきたいとやっと思うことができています。
障害のおかげで、できることもたくさんあります。その部分を私はとても愛おしく思っています。

この世の中に同じ人間はひとりもいません。いろんな人がいます。
認めて欲しい、許して欲しいと思っているわけではないです。
ただ存在していることを知っていて欲しいと思っています。
今でもできないことはたくさんあります。周りの方の支えがなければうまく生きていけません。
でもやっと自分の全部を認めることができたのは私の中では大きな一歩です。
この一歩をこれからも積み重ねて、前に進んでいきたいと思います。
ここまで読んでくださった方ありがとうございます。

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