見出し画像

ヒーロー不要!徳川家康に学ぶ才能がない人の戦略

織田信長の多年の宿敵といえば、武田信玄。彼がこの世を去った後、信長が武田家を滅ぼし、上方へ凱旋する際の心境は、長いトンネルを抜けた後の晴れやかな空のようだっただろう。その時、信長は47歳。本能寺の変でこの世を去るわずか1か月半前のことだ。富士山を見たことがなかった信長は、甲府に入ったとき、側近に向かって富士の美しさについて何度も尋ねた。絵や歌に詠まれるような美しさが本当に存在するのか、と。

その話を聞いた家康は、信長に駿河を通って凱旋するよう勧める。途中、遠州や三河を通るわけだが、それらは家康の領地である。道中のすべての接待を家康が引き受けたのだ。その接待ぶりがすごかった。現代でも困難ではないか、と思われるほど急ピッチで支度が整えられた。橋を一日でかけ、道を広げ、人垣で警護し、信長の宿はまるで御殿のように改装された。

家康は「超ケチ」として知られている。晩年、庭で手を洗った後、紙で手を拭き、その一枚が風に飛ばされると、あわてて追いかけ、拾い上げた。その姿は天下人としてはあまりにもケチくさいと若者に笑われたが、家康は「わしはこれで天下をとったのだ」と言った。だが、信長の接待には金を惜しまなかったという。

信長は感激した。一切の不自由を感じさせない接待。細部まで怠りなく気を配ったもてなし。トイレはいくつも設営した。大井川を渡らせるときは、上流で人垣を作り、信長を御輿に乗せ、家来衆は人夫の肩に乗せたという。信長は家康が自分をどれほど尊敬しているかを身をもって知り、上機嫌になった。普段、愛想など言わない信長も人夫にさえ会釈して通ったという。そして富士を初めて見た信長は、その美しさにしばし放心した。

家康は「自分には才能がない」と考えていた。絵画も茶席も詩歌も能などの芸術は分からず、戦においてもクリエイティブな戦略を用いたことはなかったという。しかし、真似る能力がずば抜けていたといわれる。優れた戦略、人、情報を取り込むのがうまく、人の失敗から学ぶことが出来た。信長を感動させた接待を成功させたのもその能力があったからだ。信長をよく知る側近の一人を顧問に迎え、どうすれば信長が満足するか調べたのだ。この家康の能力は、僕らのような弱者にとっても見習うべきものだ。

たとえば、マーケティング戦略を練るときに、相手のことをここまで調べるだろうか?3C分析ひとつとっても、多くの会社は詰めが甘い。競合を調べるのも、ライバルしか調べない。家康ならどうするだろう。自社が狙ったマーケットに参入する会社はすべて調べ尽くすに違いない。用心深い家康は、さらに異業種で競合しうる間接的な競合についても調べるだろう。勝つ会社は、競合を100でも200でも調べるという。確信がつかめなければ、のスタッフを競合にもぐりこませて、どんな売り方をしているのか、いくらで顧客を獲得し、利益率はどのくらいか。当たり前に調べる。

なぜ、当時不利と言われた関ヶ原で圧倒的勝利を収められたのか。家康という人を知ると分かる気がする。

もうひとつ、家康の思考を知ることができる面白い逸話がある。浜松城で起きたある日の事件。気が触れた男が太刀を振り回し、城内を恐怖に陥れた。その男は、見境なく人々を傷つけ、城は大混乱。そんな中、ある武人が現れた。彼は太刀の軌道を巧みに避けつつ、すり抜けるようにして男の懐に入り込み、素手で彼を制圧した。周りの者たちはその勇敢さに拍手を送った。漫画のヒーローのような活躍は、当然ながら家康も賞賛するものと皆は思っていた。ところが、家康の反応は多くの予想を裏切った。家康は吐き捨てるように言ったのだ。「そのような者は、我が家には不要だ」。

家康にとって、ヒーローは必要なかった。素手で刃物を捕らえようとする行為は、単なる自己顕示欲から来る愚行に過ぎないと考えていた。真の侍は、適切な道具を用い、計画的に事を進める者。目立とうとする者には、大切な任務を託すことはできない。そんな者が軍を率いれば、やがては全てを破滅に導く。これが家康の思考である。

だからだろう。家康は具体的な指示を与えることも少なかった。本多平八郎忠勝は家康を評してこういった。「わがあるじは、ハキとしたことは申さざる人」家康の指示の与え方はおおざっぱだったのだ。当人や裁量に任せることが多かった。だから部下は、具体的にどうするのか考えざるをえない。これは現代の指導法とは正反対といえる。自分で考え、自分で道を切り開く力が人には大切だと信じていたのだ。

こうした家康の人材マネージメントについても、彼が天下を取れた理由の一つと言える。現代においても、教えられた通りにしか動けない者と、自ら考え、工夫を凝らす者がいる。家康が望むのは明らかに後者だ。組織が成長するためには、上からの指示だけを待つのではなく、自ら考え行動する人材が必要不可欠になる。彼はただの戦国大名ではなく、時代を超えた戦略家であり、マネージャーだったのだ。