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私と所属組織の目的と手段とキャリアの重なり 前編

自分が生きる意味はなんだろう。
自分が働く意味はなんだろう。
自分がこの組織で、この役割を負う意味はなんだろうか、





日々考えてなんかいない!

だってもう自分の確固たる答えは出ている。
ここらへん変わらないところ、他の人からは珍しがられる。
大そう自分が頑固なガチガチ野郎なんだと、40歳を過ぎて受け入れたばかりだ。

思い返せば、小学校の頃からもう人生のスケジューリングがなんとなくできていた。
入る高校も決めていたし、結婚する年齢も子どもが産まれて親になる年齢も、理由はよくわからないが根拠のない数字は浮かんでいた。
そして、その通りになっている。

人はキモいと言う。

ただ、子どもの頃に唯一少し悩んだのが、
「なりたい職種」・「やりたい仕事」だったかな。

中学の頃はぼんやりと「医療系」と大きくくくり、テストでは学年で10番以内には入るのだが、医者になるほど頭も飛び抜けて良いわけではないと思ってたし、手は不器用だし。裕福では無かったし、注射も好きじゃないし、バリウムにトラウマあるし。
でもナースのお姉さんは好き(笑)

もともと心理や状況を読み、人との駆け引きや裏をかくこと、展開を当てる事に興味があったこともあり「医療心理系」か、
左肘を大怪我して手術・2年以上リハビリに通ったこともあり、理学療法士かスポーツトレーナーとか「リハビリ系」と2択な感じだった。

でも高校2年になり、いざ進路選択となったとき“ハッと気づいた”のが、
「自分がして欲しかったのは、身体を元に近づけるルーティン的な対応ではなく、受傷したひとが、元の夢や生活に戻る事が難しく、険しい道のりになるかもしれないが、自分らしい価値観のなかで後悔しない人生の選択をする背中を押すことをして欲しかったんだ」と。

そんな傍にいられそうな、「病院の相談員」を選んだことから、私のキャリアは始まっていく。

めんどくさがりな自分の性格上、大学へ行くときっと単位破滅に至るだろうと思っていたので、カリキュラムがあり就職の世話もなんとかしてくれそうな、就職率97%の専門学校を選んだ。

ちなみにその時点で、親・祖父母・オジ・オバ・イトコ・兄弟、つまりは血の繋がりのある人で大学に行った人はいなくて、(家系のフォローではないが、別に頭が悪いわけでなく、江戸時代からの職人系統での環境因と推測している)、親兄弟、親戚からは困らない生活を送れるようにと「大学進学」を強く勧められた。

まぁでも生まれながらに頑固者で一本気な性格な故、自分を曲げなかったのだが、この専門学校に進学する選択は、いま現在に至ることを考えると、結果的に良かったのだが、ひとつズレていたら地獄キャリアを送っていたことになり得る選択だった。

今思えば情報収集が稚拙だったという反省と、我ながら「もってるわ(汗)」という幸運を感じている。

正直、卒業時に国家資格もない、格式の高い民間資格も取得できるものもなく、技術もない者が病院相談員になろうなど、いま思えば笑い話である。

なんだかんだありつつ、自分には縁もゆかりもないと思っていた秦野病院の施設という「神奈川県くくり」の求人案件を、専門学校の就職部のおじさんが、秦野から通ってきている同級生ではなく、自分に紹介してくれたのである。

そういえば、祖母の弟が秦野に居て、しかも自分と同じ「すすむ」という名前で、病院施設の長をしていたという話を母から当時聴いたのを覚えている。
この時は奇妙な偶然があるもんだと思ったのだが、これも今思えば、両親がなくなり判明したことなのだが、戸籍の全部事項を取り寄せると、両親のそれぞれの母が秦野出生だったり、私の妻の母も秦野が実家であったりと、全ては
【calling(天命)】のなせることだったのかと自分勝手に意味をコスりつけているのだが、
そんなのが私とはたのグループの馴れ初めっていう話。

次回は、キャリアを重ねていくうちに、目的と価値観が増えて、変わって、深まっていった話を書こうと思います。

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