第14週:ヴァ=エラ(現れた)
基本情報
パラシャ期間:2024年1月7日~1月13日
通読箇所
トーラー(モーセ五書) 出エジプト記 6:2 ~ 9:35
ハフタラ(預言書) エゼキエル書 28:25~29:21
新約聖書 ローマ人への手紙 9:14~24
(メシアニック・ジューが合わせてよく読む新約の箇所)
救いが持つ4つの段階―
ユダ・バハナ
今週のパラシャから、出エジプトという長いプロセスが開始する。
出エジプトとは奴隷からの解放だけでなく、私たちイスラエル民族の国家として形成でもあり、この歴史的出来事は私たちのコレクティブとしての記憶に深く刻まれている。私たちは毎週(宗教的なユダヤ人であれば毎日)、祈りの中でエジプトからの脱出・救出を思い起こす。そしてより深く体験的な形で年に一度、私たちは過越の祭り(ペサハ)でそれを追体験するのだ。
過越の祭りは、救いや贖い、希望・自由そして抑圧の終わりがテーマになっており、聖書の中で最も重要な聖日のひとつだ。過越の食事『セデル』で、私たちは四杯のワインまたはぶどうジュースを飲む。これらの四つのカップは、エジプトでの奴隷の身からの救いが持つ四つの段階を象徴している。
そしてその4つの段階は、このパラシャの最初の6章6・7節に基づいている。
過越の祭りの夕食の三杯目は食後に飲むのだが、これは「贖い」を表す杯だ。したがってイェシュア(イエス)が「私の契約の血、約束された贖いである」と言って取った杯は、この3杯目だっただろうと私は信じている。
主の晩餐・聖餐式は、奴隷の身から救いと自由を与えたイェシュアによる『贖い』の上に成り立っており、そのベースにはこの出エジプトがある。
ユダヤ的ベースから見る聖餐式
主の晩餐・聖餐にはイェシュアを信じる、ユダヤ人と異邦人の両方が参加する。教会・会衆によってそれを行なう方法・様式は若干異なるが、パンとワインに対する祝福を中心として構成され、ビリーバーたちはパンを食べ、ワインやブドウジュースを飲むことによってそれに参加する。
そしてこれは安息日にユダヤ人が捧げる、キドゥッシュに類似している。
20億人以上いるクリスチャンの大半は聖餐式を経験したことがあるが、その中で上記のような『聖餐式のユダヤ性・ユダヤ的ルーツ』を意識している兄弟姉妹は、1パーセント以下だろう。ほとんど全てのキリスト者は、クリスチャン的なものとしてこれを見ている。しかし同時に世界中のユダヤ人は、毎週金曜日の夜に「キドゥッシュ(聖化)」と呼ばれるパンとワインを祝福して食すという、聖餐式のベースとなった行為を行っている。
これは非常に興味深く、神のわざを感じさせる構図だ。
パンとワインの重要性・神聖さには、長い歴史がある。
創世記ではアブラハムがロトを救出した後、エルサレムの王でいと高き神の祭司であるメルキゼデクが、パンとワインを取り出したと書いてある。
クムランで発見された死海文書の中に共同体としての規則集があるのだが、そこにはパンを裂いてワインを飲むという行為が、エッセネ派の中では非常に特別な儀式であることが分かっている。ちなみに死海文書とは、紀元前2世紀ごろに書かれたものだ。
このように聖書時代から特別な意味を持つパンとワインは、私たちにとっては主の晩餐・聖餐式であり、これはイェシュア・ハマシア(イエス・キリスト)との一致、そしてお互い/ビリーバー同士の一致を象徴している。メシアの記憶とそれと私たちの繋がり・関係だ。
この言葉を記憶することは、私たちを悔い改めに導く。聖餐式では、自分の代わりに犠牲になられたイェシュアが、パン・ワインという形で可視化される。イェシュア自身の言葉のようにこの犠牲は罪の赦し・贖いではあるが、それだけでなく、私たちは自身の行いを悔い改め、改める必要がある。
これは、預言者たちのメッセージに通じる。彼らは、罪を犯しても「贖ってくれる祭司と犠牲があるから罪を重ねてもかまわない/大丈夫だ」と考える人々を、厳しく批判している。贖い・赦しというプロセスには悔い改めという1歩目が必要であり、また生活の中で実際に意義のある変化を起こさなければならない。
さて「パン=犠牲」という聖餐式のベースの考えは、私たちユダヤ人にとって(ビリーバーでなかったとしても)驚くべき・異質のものではない。安息日の食卓は犠牲の祭壇を象徴し、2斤のパンは安息日に神殿で行なわれていた通常よりも2倍の犠牲を象徴しているからだ。
そしてレビ記の記述に従い、このパン(ハラ)には塩を塗るのが通例になっている。
響かなかった神の言葉―
トーラーの冒頭の箇所の神の約束に戻ろう。
わたしはあなたを連れ出し、
救い贖い、
そしてあなたをわたしの民として連れて行く。
この心躍る約束を最初に聞いた人々は、エジプトで奴隷として日々を送っていたイスラエルの子らだった。
そして何が起こっただろうか。
イスラエルの子らはモーセを通しての神の言葉に耳を傾けず、神が見せた親密さに心が触れられなかった(6:9~11)。今日私たちはこの神の言葉を読んで感動するのだが、当時その言葉を聞いたイスラエルびとたちの心に届くことはなかった。この約束はイスラエル民族の心に、希望の種を蒔くことには成功しなかった。
そしてトーラーはその理由も、明記している。
この聖句は、実践的に貴重な教訓を教えている。それは子育てや結婚関係などの、日常生活にも適用される。
誰かに対して話したい時には、その話を聞き理解し受け入れる土壌ができているか=耳を傾ける感情になっている/心が開いているかどうかを知る必要があるのだ。
その相手が空腹や仕事などに忙殺されており集中できなかったり、家庭などで別の深刻な問題を抱えそれを解決しようとしている場合、私たちの言葉がどんなに正論で的を得、それが相手に対しても益・救いとなるとしても…
それは無駄になる可能性がある、ということだ。
例えば目の前のその相手、例えば小さな我が子がお腹を空かせていたらどうだろう?
息子に大切な話をしたい場合、まずは空腹という話に耳を傾けることを『妨げる要因』を排除するために、何かを食べさせたほうが良い。
それと同じでイスラエルの子らは、奴隷としての生活の中ストレス・おびえ・空腹で疲れきっていた。彼らの精神的状態は、自分たちの民族としての使命や未来、父祖たちとの約束の成就などを考えられるものではなかった。
彼らの頭の中は、「いかにして今日という日を無事終わらせるか」でいっぱいだった。今日私たちを監視するエジプト人の監督は『当たり』だろうか、『ハズレ』だろうか。
もしハズレで特に厳しい監督になれば、それは命の危険をも意味する。いかに今日という日を平穏に、殺されたり罰せられることなく食事にありつき終えられるか―
まさに日々を生き延びるので、一杯一杯だったのだ。
神の言葉=当時の人々だけへのものではない
ここで重要な疑問が生じる。
全能の神は、彼らの反応を前もって知ることができなかったのか。
なぜ主はヤコブの子ら/イスラエルの子らに、耳を傾ける状態でないにもかかわらずこの計画を明らかにされたのか。
それは神の言葉の性質による。
神がここで語りかけている「イスラエルの子ら」は、3200年前にエジプトで奴隷の身だったイスラエルの子らだけではなく、私たちを含む歴史上全てのイスラエルの子らへの言葉だからだ。この言葉は21世紀を生きるイスラエルの子である、私に対しての神の言葉でもある。
神はその当時だけでなく後代の読者・子供(子孫)たちにも、同じように語り掛けている。したがってその言葉やその意味がその当時には分からなくても、将来のためにその計画や約束を明かされるのだ。
それは現代も同様だ。
神は今も計画を持っておられ、それに対して私たちが耳を傾ける準備ができていなかったり、それを捉えられずにいたとしても、計画は必ず存在する。
そして神の計画、特に贖いという青写真は段階的に展開されるものだ。それは必ず過程・プロセスであり、インスタントな一瞬・一度の変化ではない。場合や状況・私たちの成熟度によって、その過程に非常に長い時間がかかる。
(実際にイスラエル建国までには、1900年近くの時間が掛かっている。)
来るべき日、イスラエルはすべて救われる(ローマ11:26)。
それがいつかは分からないため、私たちは挫けそうになる時もあるだろう。
しかしゆっくりとそして確実に、私たちはメシアの体として成長し、強くなっていく。そして全てが供えられたら、神はイスラエルの目からベールを取り除きイェシュアを見ることになる。
そして彼らのメシアと私たちのメシアとは、ひとつになるのだ。
指針となるべき決まりと、その先のプロセス
私たちの信仰生活も、同様に過程である。
私たちの信仰も、聖書の知識もそうだ。神の言葉を知り、理解すればするほど、信仰は成長し、強くなる。私たちはみなイェシュアの弟子として、そしてビリーバーとして自分に何が求められているかを自問している。
何を、どうしたらいいか? 神は私に何を望んでおられるか?
それと同じ質問を、初代教会のビリーバー・使徒たちも問うている。新しいビリーバーには何が必要なのか?― 使徒の働き15章の「エルサレム会議」は、そんな疑問から行われた議論だった。そしてここで出た結論は1世紀のギリシャ世界を生きる異邦人ビリーバーだけでなく、21世紀の日本社会で生きる皆さまにも向けられた、神の言葉だ。
(使徒の働きは、信仰に加わった非ユダヤ人の処遇について長い議論と多くの意見を記録している。)
このエルサレム会議の結論にも、上記のような神の言葉の時空を超えた特性が適用される。
ここで使徒たちは、異邦人ビリーバーに対して指針となる一歩目を決定・提示した。彼らの考え方は、あまりに多くの制約(=戒め)を課して悩ませるのではなく、悔い改めという本質のために霊的なエネルギーを使わせる、というものだった。
そして最後の21節には「律法が安息日ごとに諸会堂で読まれている」とあるが、これはこの根本となる結論をベースに各々が御言葉を学んで理解、そして実践すれば良い― そんなメッセージが込められているように思う。
そんな『第一歩』として異邦人ビリーバーに与えられたのが、
偶像崇拝
性的不品行・不道徳
絞め殺された肉と血
を避けることだった(15:20)。
この使徒たちが議論した「異邦人もいずれ守るべき(選ばれた)戒め・決まり」というコンセプトは、ユダヤ教の中でも数百年の時を経て『ノアの七戒』となった―
偶像礼拝をしない
神を呪わない
殺さない
姦淫や性的不道徳を犯さない
盗まない
生きている動物からの肉を食べない
裁判所を設立する。
ここから私たちは、初代教会のユダヤ人の弟子たちがラビたちと同じマインドセットを持っていたこと、そして使徒15章のエルサレム会議の結論はノアの七戒のプロトタイプを現代に伝える、最古の資料であることが分かる。
聖書とイスラエルの神を信じる私たちだが、だからと言って神の言葉を100%理解・賛同し、その通りに行動できるとは限らない。まさに出エジプト記6章の、イスラエルびとのような反応をする時もある。しかしそれには必ず意味があり、それに必要なプロセスを経た後には理解・行動できるようになるのだ。
神が神たることを知らせるため
さて今週のパラシャ『ヴァ=エラ』では、十の災いの始まりについても読む。
そして多くの聖書注解者は、こんな質問に直面している― なぜイスラエルをエジプトから連れ出すために、十(も)の災いが必要だったのか?なぜエジプトを壊滅的なひとつの災いで打たなかったのか?
しかしこれに関しては、トーラーの中で答えが提示されている。
そして、その理由も簡潔にこう述べられている。
そして実際に出エジプトを通し、誰もがすべてを支配する神の大きな力を目撃した。自然やそこでの命と死を完全に支配する者。本当にこの全地において神のような方は誰もいないことが、これら十の災いや葦の海・紅海での奇跡で分かる。
神のようなお方がどこにもおらず、イスラエルの神のみが神であることを人々に知らせる―
今日まで私たちがエジプトからの解放・出エジプトについて祝い、学び・議論しているという事実は、これが災いの目的だったということのゆるぎない証拠だ。
3500年後の今も、私たちはまだ出エジプトを鮮明に記憶している。
そして神は出エジプト当時の世代だけでなく、私たちや私たちの子に対しても、その力強い御手とその完全な支配を、終わりの日まで示されているのだ。
日本の皆さまに、平安の安息日があるように。
シャバット・シャローム。
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