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第31週: エモール(言え)

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  • 去年の同じパラシャの記事は、こちら


基本情報

パラシャ期間:2023年5月12日~ 5月18日

通読箇所

トーラー(モーセ五書) レビ記 21:1~24:23
ハフタラ(預言書) エゼキエル44:15~31
新約聖書 マタイ 13:1~30
(メシアニック・ジューが合わせてよく読む新約の箇所) 

聖書的ライフスタイルと共同体の重要性
 ユダ・バハナ

今秋、来日の可能性もあるユダ・バハナ師
(ネティブヤ エルサレム)

今週のパラシャ「エモール」のメインテーマは、聖日・例祭のサイクルであるレビ記23章だ。安息日(シャバット)に始まり、ペサハ(過越の祭り)、シャブオット(ペンテコステ・五旬節・週の祭)、ヨム・キプール(大贖罪日)、スコット(仮庵の祭り)、などという年に一度の祭りについての規定が続いている。 

ユダヤ的な時間のサイクル

ユダヤ人の1年間のサイクル。
現在のユダヤ暦は聖書歴とは違い、7月のティシュレイに新年がある。
(slideshare.net より)

ユダヤ人のライフサイクルは、いくつかのくり返しで構成されている。一つ目は安息日を軸とした1週間のサイクルだ。23章の例祭の「リスト」には、安息日が最初に登場する。
そして1年というサイクルの中での例祭がいつになるかを知るためには、新月を基準とした聖書的な1か月のサイクルについて理解する必要がある。祭りは「X月Y日(から)」と定められているため、月の初めを知らなければ祭りを正しい時に祝うことは出来ない。
 
そしてその次に、1年という周期がある。祭りを全て祝い終え、パラシャット・ハシャブ=モーセ五書の通読を終えるのも、このサイクルだ。
 
そしてこれらのサイクルには、終わりがない。シャバットが開ければ週の第1日=日曜日が始まるように、12月が終われば1月になり、パラシャで言うと申命記を終えるとすぐに創世記に戻り、天地創造についての学びを再開する。
 
また1年というのよりも大きなサイクルもあり、例えば7年ごとに繰り返されるシュミタ(安息日)と、50年ごとのヨベルもあり、これらがユダヤ的な時間の流れ・サイクルの全容になる。
 
私たちのライフサイクルは肉体が力を失って死ぬまでという1つの終わりがあり、無限に続く循環ではない。そして信仰者としてあるべき姿は、次のサイクルを前のサイクルと同様の形で生きるのではなく、常に進化・改善して行くことだ。パラシャット・ハシャブアを例にとれば、歳を重ねるごとにその箇所を人生で呼んだ回数が増えて行くため、私たちは何か新しいことを学び、新たにされている。
人間は生活のあらゆる分野で毎日・毎月・毎年進歩し、新しくなっていくべきだ。
 
そして繰り返しのように見える私たちの時間のサイクルの焦点は、(パラシャの学びの中で何度も話しているが)家族と子供たちだ。このサイクルの繰り返しのおかげで、私たちは文化、信仰、ライフスタイルを家族、子供や孫たちに伝えることができる。私たちの価値観を次世代に引き継ぐ、有効な方法とも言えるだろう。それがうまくいけば、孫たちはユダヤ人として重要なシャバットを守り記憶し続け、ペサハを祝い、それらを通して神の御業である天地創造と、出エジプトを頭だけでなく体感し、それらを記憶し続けるだろう。 

子供たちが例祭の主役

イスラエルの人気家族Youtuber。
隠したマッツァ(種なしパン)を探させるなど、ユダヤの祭での子供たちの重要性が分かる。
(Ronit & Jonatan Youtubeチャンネルより  )

毎週の聖日であるシャバットや年に一度の例祭も、必ず子供たちが中心だ。
過越を見てみよう― 神がエジプトに与えた災いの際、神はご自身の強力な御手とエジプトに対する激しい災いと疫病の理由をモーセ、そして彼を通して聖書を信じ学ぶ私たちに対しても明らかにされている。 

また、わたしがエジプトに対して力を働かせたあのこと、わたしが彼らの中で行ったしるしを、あなたが息子や孫に語って聞かせるためである。
こうしてあなたがたは、わたしが主であることを知る。

出エジプト 10:2 

先月末にあったペサハ(過ぎ越しの祭)には、家全体を整理・掃除し、私たちは祭りの準備のために一生懸命働く。イスラエルでは国として、ペサハへの準備がいたるところで見られる。これらの働きの目的は、子供たちに教えるためなのだ。 

あなたがたの子どもたちが『この儀式には、どういう意味があるのですか』と尋ねるとき、

出エジプト記 12:26 

そして聖書は、子供たちの質問に対する答えもくれる。 

後になって、あなたの息子があなたに『これは、どういうことですか』と尋ねるときは、こう言いなさい。
『主が力強い御手によって、私たちを奴隷の家、エジプトから導き出された』

出エジプト記 13:14 

子どもたちを教育するのは面倒な作業・くびきではなく、私たちにとっての大きな目的だ。新約聖書では、子供たちが祝福を受けようとイェシュア(イエス)のもとに連れて来られた。弟子たちは親たちを叱り、イェシュアの貴重な時間を無駄にするなと言った。しかし、イェシュアはこう答えている。 

しかし、イエスは幼子たちを呼び寄せて、こう言われた。
「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。邪魔してはいけません。神の国はこのような者たちのものなのです。
まことに、あなたがたに言います。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません。」 

ルカ 18:16 

したがってビリーバーとして、私たちは子供や青少年に対し多大な投資を行なう。イスラエルのメシアニック活動には、青少年のグループや活動から特別クラス、キャンプや大規模なカンファレンスまで、青少年のための多くのオプションがある。
これらは次世代を霊的に強化し、彼らが良きキリスト者として教育するためのものだ。そして信仰と共に強い信念を持ち、責任感のある社会に対して模範となる大人に育てることだ。強い道徳心と高い価値観を持つ成熟したビリーバー、そして社会の一員になるために。
 
信仰者として、神が示す道を子供たちが歩み続けること以上の喜びがあろうか。
私たちが親たちから受けたことや人生の中で学んだことを織り交ぜ、子供たちより良い信仰者として歩んでいくことは、信仰者の群れの最大の目標であり同時に課題でもある。メシア・イェシュア(イエス・キリスト)を信じる者として、家族は私たちの信仰生活の中心でなければならない。
 
もしスコット(仮庵の祭)に、親が子供たちと一緒に仮小屋を建てるのをやめたら、どうなるだろうか。荒野での放浪の生活を体験的に学ぶ機会が奪われるため、最終的には出エジプトの記憶が薄れていってしまうだろう。
今週のパラシャには次のようにも書かれている。

あなたがたは七日間、仮庵に住まなければならない。イスラエルで生まれた者はみな仮庵に住まなければならない。
これは、あなたがたの後の世代が、わたしがエジプトの地からイスラエルの子らを導き出したとき、彼らを仮庵に住まわせたことを知るためである。
わたしはあなたがたの神、主である。 

レビ記 23:42~43 

これが、家族という共同体が全ての基本として重要な理由だ。 

社会という『群れ』の一員として

貧しい人々のために、畑の隅と落ち穂を残しておく習慣。
(thetorah.com より)

しかし各家族は、孤独に単独で生きているわけではない。私たちは社会というより大きな共同体の一部であり、その上にはより大きな国家というコレクティブがある。そして神の言葉は、私たちが住んでいる社会を良い形で築き、改善することを求めている。したがって周囲の人々、特に、私たちとは異なった人々、社会的に恵まれていない人々、貧しい人々に対し配慮し、愛と愛に基づいた行いを起こすことが求められている。
 
先週と今週のパラシャで重複して登場する、興味深い戒めを見てみよう。 

あなたがたの土地の収穫を刈り入れるときは、刈るときに畑の隅まで刈り尽くしてはならない。あなたの収穫の落ち穂も集めてはならない。貧しい人と寄留者のために、それらを残しておかなければならない。
わたしはあなたがたの神、主である。 

レビ記 23:22 

神は畑を隅まで刈り取ってはならない、と命じている。畑の隅の作物や果物を貧しい人々が拾い集めた摘むことができるよう、残しておけと。そうすれば神は私たちの経済的や家族としての状態、そして乳と蜜の流れるこの地を与え祝福してくださる。そして土地全体を私たちの財産および相続物として、永遠に与えてくださる。
しかし神は同時に、貧しい人々が私たちの畑に入って果物を摘むこと、一見すると窃盗にも見られるような行為を許可し、私たちに命じてもいる。
 
資本主義的な現代社会では、「パンにありつきたいなら仕事をしろ。十分に稼げていないのは、本人の責任だ」という風潮がある。なのでこの貧しい人々を恵むことが義務化されているのには、違和感と抵抗を感じる。
 
しかしここで重要なのは、恵みとあわれみだ。時間で耕し稼いだ財産は貴重で自分のものだが、私たちは『自分だけの世界』では生きておらず、そんな世界線で生きることは出来ない。私たちは社会や国家というコレクティブの中におり、それらの文脈が必ずある。真空状態のなかを生きている訳ではない。
したがって私たちは自分の貴重な時間や収穫物の一部を、社会に還元すべきなのだ。神の言葉は互いに助け合う必要があると教えている。そしてそれに対して私たちは、イニシアティブを取って取り組むべきなのだ。
 
箴言に二度「義のわざ(ヘブライ語では慈善・寄付・チャリティーなどの行為)は人を死から救い出す(箴言10:2)」という言葉がある。慈善の行為は、社会に大きな影響を与える。互いを助ける義の社会には、繁栄と永続が約束されている。
だからこそ信仰においては、貧しい人々への助けや慈善活動が非常に強力な役割を果たすのだ。 

イェシュアが求める共同体像

イスラエル特有の農業による共同体、キブツ。
写真はシャブオット時に、「初穂」ということでキブツに新しく生まれた子供たちとの写真撮影の様子。
(kibutz.org.il より)

イェシュアによれば、彼の弟子・信仰の道とは、他者、特に貧しい他者への愛と助けだ。
家族の楽しい行事や祝いの場であっても、日々の食事にありつけない人や、人々を招待できないような境遇にある人々を招待するよう、命じられているほどだ。
経済的または心身の問題を抱えている人を招待するのは、決して簡単なことではない。しかしイェシュアは、天にいる父が祝福し、報いてくださると述べている。 

イエスはまた、ご自分を招いてくれた人にも、こう話された。
「昼食や晩餐をふるまうのなら、友人、兄弟、親族、近所の金持ちなどを呼んではいけません。彼らがあなたを招いて、お返しをすることがないようにするためです。
食事のふるまいをするときには、貧しい人たち、からだの不自由な人たち、足の不自由な人たち、目の見えない人たちを招きなさい。
その人たちはお返しができないので、あなたは幸いです。あなたは、義人の復活のときに、お返しを受けるのです。」

ルカ 14:12~14 

イェシュアの教えは、こんな有名なことわざとよく似ている。
 
「あなたの友人が誰か/どのような人物か、教えてください。そうすればあなたが誰か/どのような人物か、教えましょう(分かるでしょう)。」
 
この背後にある考え方は、私たちは価値観を共有する人を探し引かれ、近くにいたいということだ。反対に自分と重要な価値観等で同意しない人たちとは、関係性を築くことを控える傾向がある。
友人がどのような人間であるかは、自身の価値観の写し鏡になり得るのだ。
 
そしてイェシュアは。そんな人の本来持つ性質を克服するよう求めている。自分とは違う人、恵まれない人を思いやることがとても重要な価値なのだ。
そして社会的に拒絶されている人々を、食事に招く=関係を持ち隣人・兄弟として迎え入れることで、私たちの共同体はより強力で団結力のあるものとなる。イェシュアの道は真の意味での社会正義に繋がるのだ。
 
社会正義について、今週のパラシャの最後に登場する少し奇妙で理解困難な物語を見てみよう。

さて、イスラエル人を母とし、エジプト人を父とする者がイスラエルの子らのうちに出たが、このイスラエルの女の息子と、あるイスラエル人とが宿営の中で争った。
そのとき、イスラエルの女の息子が御名を汚し、ののしったので、人々はこの者をモーセのところに連れて行った。彼の母の名はシェロミテで、ダン部族のディブリの娘であった。
人々は主の命が彼らにはっきりと示されるまで、この者を留置しておいた。
主はモーセにこう告げられた。
「あの、ののしった者を宿営の外に連れ出し、それを聞いたすべての人がその人の頭に手を置き、全会衆が彼に石を投げて殺すようにしなさい。」 

レビ 24:10~14 

物語の結末は、悲劇的だ。
 
よく知られているミドラシュ(解釈・解説)は、この話に光を当てている―
そのミドラシュによると、エジプト人とイスラエルびとのハーフの息子とダン族との間の争いは、財産分与に関することだったのだ。そして双方がどのように法廷に出、自身の主張を訴えたかをミドラシュは描いている。
そして最終的に、エジプト人の息子の主張は却下された。民数記によれば相続権は父系制だったため、エジプト人の息子はダン族の一員として財産や土地を相続することができず、この判決にエジプト人の息子は取り乱し、神を冒涜してしまったと言うのだ。
エジプト人の息子は自分の相続権利だけでなく、アイデンティティすらが否定されたように感じ、大きな疎外感に襲われたのだと想像する。
 
もしこのミドラッシュの背景が実際のものだったとすれば、彼が神を冒涜したのは誰のせいなのだろうか。
もし共同体に罪があるなら、エジプト人の息子だけが死刑に処され、共同体は罰されないのはアンフェアにも見える。しかし答えは簡単だ― 誰もが自分の行動に対しては、責任があるのだ。良いこないであっても、法律の違反や罪であったとしても、その責任はその人にあり、他人に転嫁することは出来ない。
飲酒運転であろうと、誰かによって引き起こされた怒りに任せたものであっても、社会的に弾圧されていたという背景があったとしても・・・トーラーには「責任能力がないことによる無罪」というコンセプトはないのだ。人が罪を犯したら、それはその人が責任を取るべきだ。したがって、神を冒涜したエジプト人の息子は、自らの罪によって石打ちにされたのだ。
 
トーラーは、個人が社会・共同体に対して背負う責任とその重要性を強調している。
私たちは公平で、他者(特に経済的・社会的弱者に対して)理解があり、助けの手を差し伸べるよう命じている。そしてそのために自分のポケットから出して自ら進んで犠牲を払い、自分の所有地での収穫の一部を、他人のために残すよう命じられている。
 
イスラエルそして日本、または各地が置かれている様々な共同体の中で、真の社会正義と相互責任を通し、私たちがメシア・イェシュアの道を体現することができるように。
日本の皆さまのうえに、豊かな週末があるように。
シャバット・シャローム!

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