第27週:タズリア(身重になる)
パラシャット・ハシャブアとは?→ こちら。
基本情報
パラシャ期間:2024年4月7日~ 4月13日
通読箇所
トーラー(モーセ五書) レビ記 12:1~13:59
ハフタラ(預言書) 列王記第二 4:42~5:19
新約聖書 ルカ 2:22~40
(メシアニック・ジューが合わせてよく読む新約の箇所)
身体のきよめと内なる清さ
ユダ・バハナ
今週のパラシャ(通読箇所)は、出産による清めについてのレビ記12章と、ツァラアト(らい病)の汚れ・清めに関する13章だ。そしてボリュームで見ると、主にツァラアトについてのパラシャと言える。
そして一見このパラシャに出てくる皮膚の健康問題は、今日ではもはやほとんど存在しなく、21世紀の私たちと直接的な関係はない。しかしそれによる汚れを清める儀式について、読んで学ぶ。
汚れ=清めが必要な状態
最も一般的なこのパラシャからの考え・結論は、公衆衛生の保護、不潔・不純な人や病人から距離を保つべきというものだ。そこで今回は、『不純』とはどういう意味かという問題を掘り下げてみよう。
通常、(ツァラアトや出産により)汚れているということには、道徳的な意味はない。人が倫理的に善良・真っ直ぐであったとしても、汚れることがあるからだ。「汚れ・汚れている(טמא)」とは、清潔ではなく汚く、清くないという意味だ。汚れた/汚れている人とは悪人・罪人ではなく、何か清くなく汚す物・者に触れた結果、清められなければならない人のことを指すのだ。
そして聖書には汚れ、人を汚すものに関する長いリストがある。その代表が、『死』だ。前のパラシャでは清くない、ノン・コシャーの動物のリストを見たが、まず聖書は動物の死体に触れないよう警告している。
そして聖書は同時に人が汚れた場合に、注意深く行動しなければならないと繰り返し警告している。注意して周りの物に触れなければ、その不純・汚れを他の人に移すことはない。そしてできるだけ早く入浴し、衣服を洗うように求められている。
ツァラアト=現在は馴染みのない『汚れ』
そして今週のパラシャで取り扱われているツァラアトに関しては、疫病の蔓延の恐れを無くすため、または少なくとも周囲の感染の可能性を最小限に抑えるため、ツァラアトを患っている人々を残りの人口層から分離するよう命じている。
一部の人々は歴史的にヨーロッパで大流行し、致命的なダメージを欧州諸国に与えた疫病とこのパラシャでのツァラアトとの関係性を指摘している。その一方、ユダヤ人は比較的それによる被害を受けなかった。一部の歴史評論家は、この違いがトーラーに基づく個人の衛生管理の結果であると論じている―衣服の洗濯、人や動物の死体からの距離、定期的な手洗いなどだ。
人類史上最も暗い時代の1つでさえも、ユダヤ民族は公衆衛生を保護する手段が取られていた。
しかし21世紀では、一部を除く世界中の大半で十分な衛生管理が行われており、現在今週のパラシャが生活に影響する『リアルな問題』という訳ではない。
割礼という戒めはどこから?
そんな中、今週のパラシャで現在も確実に関係があるのは、この聖句だ―
なぜなら、イェシュア(イエス)を信じるユダヤ人であるメシアニック・ジューを含む、ほとんどのユダヤ人が今日も男子であれば生後8日目に割礼を受けるからだ。ここで1つの疑問が生じる― 今でも割礼を行うのは、このトーラーの箇所があるからか、それとも神とアブラハムとの契約のためか?
一般的なユダヤにおける見解は、トーラーでイスラエル民族に命じられた瞬間から義務になったのであり、アブラハム時代というそれ以前は義務ではなかった、というものだ。そうするとアブラハム契約の象徴としての割礼は、未だ義務ではなかったことになる。律法・法律という性質上、神がそれを直接的に命じた(=法律の施行)瞬間から割礼を守る義務があると言うのだ。
しかしユダヤ教には、「ギド・ハナシェ」という概念がありこれは、上記の視点と矛盾する。
ギド・ハナシェとは「忘れられた腱」を意味する、動物の大腿骨の近くにある坐骨神経だ。この部分は食べることを禁じられており、コーシャに則った肉からは必ず取り除かれる。そしてこの部分の食用禁止は、ヤボクの渡しでヤコブが神の天使と闘ったことに由来する。ヤコブは戦いに勝ったが、天使が彼の足の腱を打ったのでその後彼は足を引きずるようになった。
しかしトーラーは、ギド・ハナシェについて正式には戒めをしておらず、この文章はただ単なる「イスラエルびとは食べない」という現象を描いたものだ。
それにもかかわらず、私たちはそれを法的拘束力のあるものとして守っている。
では、割礼をするのはなぜか― アブラハムの契約か、それともトーラーの箇所からの明確な戒めか?
私の考えによると、割礼がユダヤ文化にとって非常に重要な理由は、伝統と、アブラハムと神との契約、およびトーラーの戒め、という3つが組み合わさっているからだ。この国の絶対多数が、世俗派や無神論者のユダヤ人でさえも、大半が割礼を守っている。それはこれらの理由によって、今日に至るまで割礼とその戒めが、非常に重要なものになっているからだ。
新約にも頻出する『ツァラアト』
さて、割礼の戒めはこのトーラーの箇所のほんの一部分だ。
ツァラアト/らい病のきよめに関しては、どう取り組むべきだろうか?
この箇所はキリスト者にとっては、特に興味深い。なぜなら新約聖書はツァラアトに侵された人々について幾度となく語っており、イェシュアはも癒したことが何度かあるからだ。そしてこれは、何を意味するだろうか?
新約聖書はツァラアトからの癒しを奇跡とし、イェシュアが救い主であるということの根拠だと示している。バプテスマのヨハネの弟子たちは、イェシュアにこう尋ねに来た。
ヨハネの弟子たちはこう率直に尋ねた― あなたはメシアか。あなたは私たちに希望と贖いをもたらす、来るべき人なのか、それとも他の誰かを待つべきか―
それで、彼は使者たちに答えた。
イェシュアは質問に対して、質問を持って彼らに答えている―
あなたが見たのは何か?奇跡と不思議を見、人々は癒され、ツァラアトがきよめられている。
そして新約聖書は、その疑問に対して明確な答えを与えている。答えは、「ケン/Yes」だ。彼こそが希望であり、イスラエルと世界に約束された救い主/贖い人だ。
マルコの福音書に登場する、らい病患者を癒すイェシュアの記録を見てみよう。
誹謗・中傷と関係するツァラアト
らい病患者を癒すことは、何がそんなに特別なのか?
新約聖書にそれが何度も起こっているのはなぜか?
当時、ツァラアトが不治の病だったという事実・特異性が、これを奇跡にしている。
しかしイェシュアの癒しの本質は、身体的治癒ではなく人の魂と内なる存在への癒しだ。特に聖書時代においてツァラアトとは一般的な病気とは違い、人の内側にある内面的腐敗が外側に症状として表われたものだと、信じられていた。
ユダヤの伝統的な解釈にはらい病患者は、誹謗中傷で人を傷つける行為と関連があると信じられていた。なぜなら「ツァラアト(צרעת)」に感染している人のことを、「メツォラア(מצורע)」と言い、これは「モツィ・(シェム・)ラア=直訳:悪い名前を(口に)出す人」という、誹謗中傷などで人を傷つける人を意味する表現と似ており、言葉遊びのようになっている。そこでユダヤ教でツァラアトは、人に関する悪いうわさ話と関連づけられている。らい病は医学的な問題ではなく、神からの罰として考えられていた。
そしてこれには、聖書的な根拠もある。
モーセの姉ミリアムは、民数記 12 章でモーセを非難し否定的な言葉を投げ掛けた。そしてその結果、彼女はツァラアトに冒された。ここからユダヤ的観点では、ツァラアトは否定的な行動、特にうわさ話や誹謗中傷、陰で他人を傷つけたり、中傷したり、公然と屈辱を与えたりすることの結果として考えられている。
私たち人は、他人の傷ついたことや否定的な話を楽しむ傾向がある。それらは発する、または聞くことによって自身の気分が良くなる場合もある。しかしそれらを発し聞くことにより内面の腐敗が生まれ、ツァラアトはその結果と見なされているのだ。
人の口から出てくるものこそ、その人の人柄や性格の写し鏡だ。そしてイェシュアは、次のように言っている。
この言葉は、食べ物に関する法規定とは関係ないという話を、先週した。イェシュアは、私たちを本当に汚すものは、心の中から来るという汚れのベクトルについて説明しているのだ。
何を自分の口に入れるかに腐心し、どれだけ厳格なコシャー(食物規定)を守っているのかに心をすり減らすのではなく、自分の口から出、人を汚すことに心をより向け、他人を傷つける誹謗中傷やうわさ話に、どれほど気をつけなければならないか、というのがイェシュアの意図だった。
目に見える清め=内なる清さが形になったもの
そしてイェシュアは、さらに多くを求めている。
表面として顕在化するうわさ話を控えるだけでなく、根本的問題、つまり内側の腐敗に対処しなければならない。だが誰が、人の内側の問題を解決できるのか?私たちはイェシュアを指差し、「彼こそ、私たちを癒すことができる」と力強く言えるのだ。
イェシュアは私たち弟子に、内なる純粋さを保つよう求めている。誹謗中傷などの否定的な性質があるということは、その反対の賞賛や良い言葉もある。他人の失敗を探すのではなく、良い所を探し、励まし、称賛する― 私たちには周りの人を、清め強くする力も同時にあるのだ。
それこそ、イェシュアが私たちに求めていることだ。他を傷つける言葉を控えるだけではなく、人々を励ますよう求められている。
イェシュアは人々を、内側から清めるために来た。
新約聖書がしばしばツァラアトのきよめについて語っているのは、偉大な奇跡について語っているのではなく、その人の内なる存在が癒されたことの証明としてだ。別の出来事で、中風で身体の麻痺した人が連れて来られたとき、イェシュアはこう宣言した。
この時、周りの人々は恐れ、そして心の中で考えた― 罪を許すことができるのは誰か、神だけではないか。神のみが、罪を許す力を持っている。
そして人々は、イェシュアの言葉を神への冒涜だと受け取った。そしてイェシュアは、人々がそう考えていることを見抜いており、彼らに向かってこう言った。
この場で明白なのは、言葉を発するだけというのは簡単だという点だ。「誰かの罪が赦された」と言うのは簡単であり、なおかつそれと言った後にその人の心が赦されて清いのか、またはまだ許されておらず汚れているか、チェックする手段は人にはない。しかし身体の麻痺した人に「起きて歩け」と言葉を掛けるのは、より困難だ。
そして実際にその人が立ち上がって歩いたなら… それこそ本当に奇跡であり、全ての人の目に明らかだ。
イェシュアは、私たちの疑問に答える― 彼に罪を赦す権利があるのかどうか。
こうしてイェシュアは、自分が罪を赦す権威を持っていることを証明した。
この話は信仰の根幹を浮き彫りにしている。
罪はすべての人に存在する。時には罪があらゆる種類の症状となって現れる。聖書の時代には、罪がさまざまな皮膚病や汚れを引き起こした。そして今日では、怒り、悲しみ、絶望、またはうつ病を引き起こす可能性がある。内側の腐敗や心の問題は、現在でも多くの異なる症状として目に見えたりもする。
聖書時代から中世まで、ツァラアトにかかった人々は宿営・街の外で、他から離れて暮らしていた。宿営の外で、その人は皮膚だけでなく魂の癒しと清めのプロセスを行った。そして最終的にこのプロセスを経て治癒された場合、ツァラアトだった人は新しい人生を始めるために剃毛し、水に浸されなければならなかった。
これは「生まれ変わる」ということだ。
「生まれ変わる」ということは、人が内なる罪を認識していることを意味する。その人は罪の赦しと心のきよめを求め、イェシュアを個人的な救い主として頼り、自分の人生を神に捧げる意思を宣言する。
そして癒されたツァラアト患者と同じように、イェシュアの弟子としてその人は水を通り、新しい人として出て来る。これは、古い人が自分の罪と共に死に、新しく生まれるという、再スタートを象徴している。
個人として、民族として、そしてイスラエル国家として、神は私たちにセカンド+サード・チャンスと再びやり直す機会を与えてくださっている。神は何度も何度も私たちをきよめ、さらに機会を与えてくださる。これはすべて、トーラーや預言書に何度も述べられている理由のためだ―私たちは神の民になり、彼は私たちの神になる。
この新しい始まりのためには、神と私たちの周囲・人々を敬わなければならない。
イェシュアが私たちに命じているように、(誹謗や中傷ではなく)賛美や励ましを自らの口で語るとき、それは内なる癒しにつながるのだ。
日本の皆さまに、平安の安息日があるように。
シャバット・シャローム。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?