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パラシャ 第25週:ツァブ(命じよ)

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基本情報

パラシャ期間:2023年3月24日~ 3月30日

通読箇所

トーラー(モーセ五書) レビ記 6:8(ヘブライ語では6:1)~ 8:36
ハフタラ(預言書) エレミヤ書 7:21 ~ 8:3、9:22 ~ 23
新約聖書 ヘブル人への手紙8:1 ~ 6
(メシアニック・ジューが合わせてよく読む新約の箇所) 

犠牲を通じての神の贖いの道
ユダ・バハナ

ユダ・バハナ師
(ネティブヤ・エルサレム)


犠牲・いけにえ=神への接近

レビ記第2週の今週も、犠牲の規則についてのパラシャだ。
一見すると、コハニーム (祭司、コーヘンの複数形) だけが対象にされているように見える。このパラシャが今日のビリーバーである私たちに、関係があるのか― 疑問に思う人もいるかもしれない。
しかし今でも、私たちにとってこのパラシャは非常に重要なものだ。イェシュアが神であり、メシアであり、生ける神の御子であるという私たちの信仰に加え、私たちは彼を大祭司としても見ているからだ。ヘブル人への手紙 8 章が、これについて明確に説明している。 

以上述べてきたことの要点は、私たちにはこのような大祭司がおられるということです。この方は天におられる大いなる方の御座の右に座し、人間によってではなく、主によって設けられた、まことの幕屋、聖所で仕えておられます。
大祭司はみな、ささげ物といけにえを献げるために任命されています。したがって、この大祭司も何か献げる物を持っていなければなりません。もしこの方が地上におられたなら、祭司であることは決してなかったでしょう。律法にしたがってささげ物をする祭司たちがいるからです。
この祭司たちは、天にあるものの写しと影に仕えています。それは、モーセが幕屋を設営しようとしたときに、御告げを受けたとおりのものです。神は、
「よく注意して、山であなたに示された型どおりに、すべてのものを作らなければならない」
と言われました。

ヘブル 8:1~5 

この聖句は宣言で始まっている。
私たちには神の右座に座る大祭司が居て、天の至聖所で奉仕している。この大祭司は私たちが天国の門に到達し、神の赦し、憐れみ、慰め、希望を受ける道なのだ。
 
ヘブル人への手紙の筆者は、地上の祭司たちの奉仕は天の祭司の影であり、地上にある幕屋神殿は天の聖所の影であると続ける。それゆえモーセは、天の聖所とそこにある品々について学び、地上にそれらの写し・コピーを作ったのだ― 

よく注意して、山であなたに示された型どおりに作らなければならない。

出エジプト記 25:40

ここからも、地上の聖所は最初から一時的なものだったことが分かる。さらに出エジプト記 29 章では、全焼のいけにえのささげ物は人々を神に近づけるためだとある。 

これは、主の前、会見の天幕の入り口での、あなたがたの代々にわたる常供の全焼のささげ物である。その場所でわたしはあなたがたに会い、その場所であなたと語る。
その場所でわたしはイスラエルの子らと会う。そこは、わたしの栄光によって聖なるものとされる。

出エジプト記 29:42~43

そして,神はこう約束した。 

わたしはイスラエルの子らのただ中に住み、彼らの神となる。

出エジプト記 29:42~45 

したがって、幕屋と神殿で行われる働き・奉仕の目的は、人々を神自身に近づけるためだった。
そしてそれは、全世界・人類に恵みと希望を与えるメシア・イェシュア(イエス・キリスト)が来られる道を開いた。
 
祭司に与えられた役割は、罪とその罪を清めるいけにえを行うだけでなく、その意味を教えることもあった。神を拝する方法を教えるのも、祭司の仕事だ。神の律法、神のことば、そして神の戒めに対する理解が深まると、私たちは次のステップ、真理へと導かれる。それこそが、世の罪を自ら負うメシア・イェシュアだ。 

イエス(イェシュア)のいけにえは、旧約・ユダヤ観がベース

1世紀にユダで十字架に掛けられた男性のかかとの骨。
(timesofisrael.com より)

イスラエルはまだ次に来る永遠の世界を待ち、いずれ王であるメシアが私たちすべてを贖うために来るという信仰は、ユダヤ教の中に深く根付いている。
 
洪水が起こったノアの時代やソドム・ゴモラの時代のように、正義の尺度とトーラー(神の教え・定め)に従い、世界とすべての住民は何世代にもわたって、破壊されるに値していた。したがって全世界が、神の贖い・赦しを必要としている。大祭司によるいけにえ、メシアの赦しが必要なのだ。
 
イェシュアは唯一、完全で義にかなった人であり、少しの違反もない。
それにもかかわらず、彼は、私たちが最悪の敵にさえ望まない、恐ろしく悲劇的な最期を遂げた。パウロはそれによって、イェシュアは私たちを「トーラーの呪い」から贖ったと書いている。では、「トーラーの呪い」とは何か。
 
「キ・タボ」のパラシャ(申命記26~29章)では、モーセがトーラーを守らない者は誰でも「愚かで呪われている」と語っている。 

「このみおしえのことばを守ろうとせず、これを実行しない者はのろわれる。」
民はみな、アーメンと言いなさい。

申命記 27:26

しかし、もしあなたの神、主の御声に聞き従わず、私が今日あなたに命じる、主のすべての命令と掟を守り行わないなら、次のすべてののろいがあなたに臨み、あなたをとらえる。
あなたは町にあってものろわれ、野にあってものろわれる。あなたのかごも、こね鉢ものろわれる。あなたの胎の実も大地の実りも、群れの中の子牛も群れの中の子羊ものろわれる。
あなたは入るときにものろわれ、出て行くときにものろわれる。
主は、あなたのなすすべての手のわざに、のろいと混乱と懲らしめを送り、ついにあなたは根絶やしにされて、たちまちにして滅びる。
これは、わたしを捨てたあなたの行いが悪いからである。

申命記 28:15~20 

これらのみことばによると、私たちの家族や、私たちが労働によって作り出すものすべてなど、私たちに関する全てがのろわれる。パウロは、これを非常に真剣に受け止め、この状況から家族や自分自身を解放するにはどうすればよいか、問いかけている。そして彼の答えは、メシアという解決策だった。
メシアは自身の血をもって私たちを買い取り、呪いその身に負って十字架についたのだ。
 
ここで私たちは、贖いに関する別の見方に出会う。これは元々の聖書の定義に非常に近い。聖書において一般的に『贖い』と呼ばれる行為は、対価に対する支払いだ。
ある人が別の人の借金を返済し、贖う。贖い人は、債務者を力づくで解放しようと刑務所破りをするのではなく、その人の債務を最後の一コドラントまで支払う。
 
私たちの負債は神自身に対するものであり、ユダヤの賢者によれば神への負債を返済できる人はこの世に一人も居らず、罪人は死に値するため、私たちはみな死に値する。このような背景からイェシュアの血による救いと贖いという考えは、理解し難いことではない。なぜなら何世代・千年以上にもわたって、私たちの民は幕屋と二つの神殿の時代を通して、この用語を用い、なおかつ実際に実践してきたからだ。 

完全なるいけにえとしてのイエス(イェシュア)

そしてこの考えは、「完全に正しい一人の人」に帰着する。私たちは、王なるメシアが全世界を支配することを知っている。しかし、どのようにして彼はすべての人々を、日本からアルゼンチン、エルサレムまですべての人々を支配することができるのだろうか?
 
ユダヤ人をはじめ律法と預言者の書で育った人を満足させる、この質問への唯一の答えは、霊だ。メシアは神の霊をもって、全世界を統べ治める。メシアによる征服・統治は領土や武力を行使したものではなく、聖霊による人々の心の征服・統治なのだ。
 
さて今週のパラシャ「ツァブ(命令)」は、先週に引き続きいけにえを扱い続けており、ここでまた疑問が生じる。
これは今日のビリーバーである私たち、そして私たちの生活にどう関係しているのか?
 
宗教的な意味ではない広義で言えば、犠牲は私たちの生活にあふれている。将来より良いものを得るために瞬間的な満足・快適を拒否=その瞬間を犠牲にする、という考えは人が普遍的に持つ考えで、異質に感じる人は居ないだろう。
私たちは「今」ではない時=未来・将来のより良い生活のために働き、必要な貯蓄をする。そしてどんな犠牲にも、未来を改善する力がある。そして、教育やキャリアへの犠牲が大きければ大きいほど、将来的にはより有益になる(と考える)。
例えば親や配偶者として、愛する人のために多くのことを犠牲にする。愛する者のために私たちは、喜んで多くを犠牲にする。 

では、それを信仰に適用してみよう。神を愛する人々として、私たちはどうだろうか?
私たちは神のために時間や心、金銭や物品など多くのものを犠牲にする。これらはレビ記に書かれている生き物の犠牲ではないが、これらの犠牲は愛から生じたものなので本物の犠牲だ。
 
そして神はどうか?
ヨハネ 3:16が、新約聖書のメッセージを端的に要約している。 

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。
それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

ヨハネ 3:16 

この世に対する大きな愛から、神はそのひとり子を与えた。
私たちに希望の贖いを与えるためだ。イェシュアは、私たちが守れなかった全ての戒めと、その違反に関して、私たちが本来ならば受ける必要があった罰から私たちを贖われたのだ。

私たちが捧げるべき犠牲

イエス時代の古代エルサレムの様子。
多くの人々がヤギ・羊や穀物を携え、神殿へと登った。
(Shalom Kveller/City of David Archives より)

では今日、私たちはどんな犠牲を払う必要があるのか?
答えは、人によって異なるだろう。多くの場合、それは私たちが持つ最も重要かつ貴重なものだ。神はアブラハムに、愛するひとり子を求めた。そして、神は何を犠牲にしたか?ひとり子だ。世のため、人類を救うための犠牲として。
 
そして、私たちの犠牲は何か?
例えばイスラエルでは多くの兵士が、国とその民のために命を犠牲にしている。母親は、家族のために自分のキャリアや社会的地位や、収入を犠牲にすることもある。私の母もそうだったし、私の妻もそうだ。家族のために犠牲になっている親は、たくさんいるだろう。父親も家族のためにそれぞれ犠牲を払っている。
私たちは家族・子供たちのために、すべてを尽くす。このような『犠牲』をやめれば、すべてが崩壊してしまう。パートナーがお互いを犠牲にするのをやめれば、結婚生活は破綻するだろう。
 
社会が犠牲の概念を失えばその社会には未来がなく、終わりへのカウントダウンが始まる。現在を犠牲にしない人間には未来がないのと同じだ。
 
私たちは神に、血の犠牲をささげる義務がある。 

律法によれば、ほとんどすべてのものは血によってきよめられます。
血を流すことがなければ、罪の赦しはありません。

ヘブル 9:22 

新約聖書全体は、イェシュアが私たちのための犠牲・神の小羊であるという事実に基づいている。彼は私たちの過ぎ越しのいけにえであり、贖罪の日のいけにえでもある。私たちに贖罪を与えるものは何か。贖罪の日か、それとも贖罪の犠牲か。
 
神殿では毎年、毎日何度何度もいけにえが捧げられた。
これらの犠牲は、私たちの罪と悔い改めの必要性を思い出させた。しかししばらくすると、それらは単なるシステムと化し、私たちは真摯・純粋さを失った。実際に多くの預言者が、いけにえの制度に対し厳しい批判を行っている。
しかしそれは、イザヤ・エレミヤなどの預言者たちがいけにえの捧げ物自体に反対で、やめさせたかったからではない。
彼らが反対した『犠牲・いけにえ』とは、真の悔い改めや心の入れ替え・変化なしに捧げるものであり、神殿での奉仕・いけにえがあらゆる悪行を自動的に贖うことができる、という考えに対して厳しく反対したのだ。
単に『心からの高価な捧げ物』と称して、神に賄賂を贈り赦しを買い取ることはできない。
 
たとえばエレミヤ書では、道徳的および宗教的腐敗が深すぎる場合には、再起動・リセットが必要であることがわかる。「根こそぎ引き抜き、引き倒し、滅ぼし、こわす」時が来た、と言っている通りだ。(エレミヤ 1: 10)
 
目標は、私たちの信仰と道徳が元の正しい場所に立ち返ることだ。そうすれば、破壊・根こそぎ引き離す代わりに、建て・植える時となる。
 
メシアの犠牲に預かるには、神の言葉が私たちの心に書き刻まれる必要がある。
「新しい契約」の意味は、神が私たちの心に入り内在し続けるということだ。御言葉に対する私たちの責任は「ただ見せるため」という、外見ではない。私たちの心と日常生活に、御言葉が深く刻み込まれなければならない。これが、メシアの犠牲にあずかるための必要条件だ。
 
私たちにとってイェシュアとは主であり、主人だ!
預言者イザヤの言葉によると、彼は私たちのためのいけにえだ。 

私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。
しかし、主は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。

イザヤ 53:6 

日本の皆さまに、平安の安息日があるように。
シャバット・シャローム。

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