見出し画像

立て看とアジビラ

        立て看とアジビラ
            京成サブ
 最近はいくつもの大学に「立て看同好会」というサークルが出来てゲリラ的に立て看を設置したり活発に活動しているようだ。『情況』の最新号にも、学生たちの座談会が掲載されて、なかなか面白い。数年前に、京大の立て看が町の景観を損なうとかで撤去騒ぎがあったり、昨年秋には、明治大学の学園祭で立て看を立てる自由を主張した立て看に対して、当局が警察を呼び、学生も処分されるなど、信じられない事態にもなった。今やほとんどの大学が、立て看はもとより、ビラ配布やステッカーを張る自由もなく、当局に届け出て許可をもらう形になっているらしい。そんななかで、立て看ゲリラが拡がっているのは頼もしいし、新旧世代で立て看交流!なんかやってみたいものだ。

 そんなわけで今回は、立て看やアジビラを旧世代がノスタルジックに回想するのではなく、今の世代の実践につなげられればと願う。自分が最初に立て看という存在に衝撃を受けたのは、確か1968年2月、中学2年生の時、神保町の古本街に行く途中、御茶ノ水にあった中央大学の横を通りがかったときだ。当時中大では学費値上げ阻止闘争で全学ストの渦中であり、門の内側は机と椅子で頑丈なバリケードが組まれ、「全学スト決行中」「学費値上げ白紙撤回せよ!」という極太ゲバ文字で書かれた立て看が立てられていた。そんな光景は初めてだったので、「大学生は凄いなあ」と見とれてしまった。そして中大生のデモ(千人くらいいた)にも遭遇(全員がスクラムデモだ)先頭の100人くらいが赤ヘル(全中闘)をかぶっていて、「これが有名な全学連かあ」と、しばし見とれてしまったのだった。
 その次は同じ68年の中学3年の秋、教育実習に来た早大生が「今度、早稲田祭やるから遊びに来いよ」と誘われ、行ってみると、キャンパス内は立て看の海だった。あの10・21国際反戦デーの直後だったので、「騒乱罪を粉砕せよ!」とか「東大闘争勝利!安田講堂前へ総結集を!」とか、ド派手な立て看板(やはり革マル派が多かったが、解放派も民青のもあった)を見て歩くだけでもワクワクした。そんななかに小さな看板で「『早大闘争』上映会」とあったので、入ってみると、66年の学費値上げ阻止闘争をスライドと音声で記録したドキュメンタリーだった。これが実は、のちにNDU(日本ドキュメンタリストユニオン)を率いる布川徹郎(故人)の早大生時代の映像デビュー作だったのだ(まず今では観られない)。それから東大の安田砦攻防の少し前、冬休みを利用して東大(本郷)に「見学」に行ったこともあった。テレビのニュースや新聞の写真でおなじみだった立て看に圧倒され、安田講堂は本当に「砦」だった。

 そして69年、高校に入学すると「反戦共闘」というグループが校内でビラを配布したりしていたので、一緒に活動するようになり、ベニヤ2枚ほどの小さな立て看を無届けで立てることになった。ところが設置して間もなく教員たちが撤去して、その後、職員室に呼ばれて絞られ、ホームルームで討論会になったりと、それなりの闘争になっていくのだが、その立て看自体は、大学で見かけた迫力あるものとは大違い、ポスターカラーや墨汁を使って刷毛で書いた文字もショボイものであった。その後、明治公園で反安保の集会があったあとで、紛争校と呼ばれていた都立青山高校の前をデモで通ると「全学バリスト決行中! 青高全共闘」と大書された立派な立て看が立てられ、門の上でデモ隊に向けて赤旗を振ったりしてカッコよかった。「さすが青高は立て看からして違うなあ」なんて感心たのだった。
 高校時代、闘争中の大学を散歩がてらに巡るのも楽しみの一つであった。というのは、運動関係の取り組みだけでなく講演会や自主上映会とか面白そうな催しの情報源が、立て看だったり、ビラやステッカーだったのだ(まだ「ぴあ」もない時代だ)。ちなみにステッカーは電信柱にも張り放題で、大体深夜に張りに行く。軍手に洗濯のりをべたべたと塗り付け、それを電信柱にごしごしと塗って丸めていたステッカーを順繰りに引き出して張り付けるのだ。やがて大学(都内の某私立大)に入ると、1973年という学生運動退潮期ではあったが、キャンパス内は諸党派からサークルまで、ありとあらゆる立て看が林立、壁という壁には、ビラ、ステッカーが貼られ、落書きも書き放題。これが年とともに少なくなって、あげく昨今の大学では、立て看といっても、縦長のベニヤ1枚分の役所のお知らせみたいなしろものを大学側に許可願いを出して借りて、決められた場所に立てるのが普通とか。催しのポスターも大学の許可をもらってやっと掲示板に貼れるという悲惨なことになっている。

 アジビラについては、学生の頃(1970年代)のビラの基本は、ロウ原紙に鉄筆でガリガリと字を刻む古典的なスタイルで「ガリ切り」とか「カッティング」と呼ばれ、印刷は謄写版でインクを塗ったローラーを前後に動かして刷るので「スッティング」と呼ばれた。先輩たちには名人級の職人みたいのがいて、カッティングの文字がまるで活版印刷の文字みたいに決まっているものとか、ガリガリと時間をかけてのタイトルがまるで立て看のような迫力で迫ったり、ほれぼれするものがあった。またスッティングも「1分間で何百枚」の超スピードでローラーを動かし、紙をめくるなど、ベテラン技を見せられていたのだ。
 ビラは基本、登校時や昼休みキャンパス内でアジ演説とともにヘルメット姿で配るのだが、当時はもう「シラケの季節」なんて呼ばれて受け取る学生は少なくなっていた。そこで、授業中でも構わず活動家が教室内に入ってその場で机の上に置いていくケースも多かった(もちろん教員は黙認)。熱心に読んでいたりすると、活動家が(ヘルメットのまま)横に座って、「君、〇〇に関心あるの?」なんて話かけてきたりして、応じたりしていると「このあと、社研の部室でゆっくり話さない?」なんつってオルグが始まる。ビラに使う紙は、まだ薄茶色のわら半紙が普通で、白いコピー用紙で刷られたビラなんてほとんど見てない。
 やがて、ビラもタイプ印刷、オフセット、ワープロ、パソコンなどと進化してゆくのだが、ずっとあとになっても、手書きのビラを見るとなぜかホッとする。その手書きの文字がまたガリ版風だったりすると、「この人、若い頃は絶対ガリ切りやってたな」と分かるのだ。

 一方、立て看は、ベニヤ4枚をワンセットというのを基本形に、それを1セットか2セット並べるのが普通だが、なかには1セットを縦にして、それを4~6セット並べる特大立て看というのもあった。いずれも模造紙をたるまないように張り、鉛筆で下書きをして、刷毛で決めるのだが、不慣れだと、文字がたれたり、傾いたり、字画が決まらなかったりと、なかなかうまくいかない。某党派のバシッと決まった立て看を見るたびに、「やっぱし党派の立て看修業は本格的だよ」なんて悔しがってもいた(ちなみにその某党派はアジビラも決まっていた)。色の組み合わせも、「~阻止」「~粉砕」など切迫した闘争には、赤(特に墨汁の朱色。墨汁に洗濯のりを混ぜて使うとたれにくい)と黒、赤字に黒字の影をつけてカッコつけたり、「~講演会」「上映会」みたいな、カルチャー系のときには、青や緑のポスターカラーを使ったり、抗議文や声明など、文字が多いときは、そこはマジックで書いたりと、バリエーションもあれこれ考えるのだ。
 あとは窓にスローガンを貼って見せるというスタイルもあって、たとえば「安保粉砕」だと、模造紙1枚ごとに「安」「保」「粉」「砕」と一文字ずつ大書して、それを窓に張り付けてゆく。登校してきた学生が構内の建物を見上げると、おなじみのスローガンが並んで見えるというわけで、これは特にその大学を牛耳ってる党派が、「ここは我が派の縄張りだ」と誇示する意味を込めてやったものである。ついでに学生会館などの屋上に党派を旗を立て、上からスローガンの垂れ幕でも垂らせばバッチリというわけである。

 さてこの立て看は、ただ立てるだけではない。ときには路上バリケードにも活用された。前々回に取り上げた「カルチェラタン解放区闘争」には大学から椅子や机などと一緒に持ち出され道路上にバリケードとして使われ、ついでに燃やすこともしばしあった。あるいは、東大闘争など全共闘と民青がゲバルトで激突したときなどに投石を防ぐ盾代わりにも使われた。さらには、1980年代頃の山谷越年・越冬闘争の拠点(玉姫公園)にも、立て看は活躍(本来の役割以外にも公園周りを防衛のために囲ったり)し、支援に来ていた東大グループの導きで、東大駒場構内に余っている古い立て看を大量に調達することもあった(ちなみに東大駒場は現在でも立て看は自由に立てられる稀有な大学だという)。そこでも立て看の文字面がそれっぽいのは、間違いなく学生活動家出身であった。

 運動史の回顧もの、研究書は多々あるが、立て看とアジビラをきちんと考察した文献は見たことがない。1978年か79年頃に、『旗とポスター』(戸井十月著 晶文社)を購入したことがある(誰かに貸したままか所在不明に)。著者の戸井十月(故人)は、美大の全共闘やべ平連を経て、イラストやノンフィクションライターで活躍、オートバイで世界を駆け巡ったりもした。本書は、主に全共闘時代を中心に表現されたデモ、旗、立て看、アジビラ、ポスターなどを、ビジュアル面のポップ革命として考察した面白い本だ。こうしてみると、立て看もアジビラも、解放区やジグザグデモと同じように、新左翼的ポップカルチャーとして見ることができそうだ。共通するポイントは、主張していることの正しさよりも、スペクタクル、ワクワク感、カッケー、イカしてる、といった感覚だろう。
 当節、当局(大学、警察、地域社会)が、立て看とか落書きなどのアートグラフィティにやたらと敏感になるのは、これが叛乱の予兆になり得ることを察知するからだろう。思い返せば、立て看が林立し、アジビラがまかれ、アジテーションが響き渡り、赤旗・黒旗は翻る空間は、大学のキャンパスであれ、寄せ場や争議中の労働組合であれ、不穏な空気を醸し出すとともに祝祭カーニバル的な解放感があった。このカルチャーを絶滅危惧種にしてはならない。立て看をはびこらせよう!

☆ YouTube連動企画「立て看とアジビラ」

☆ 旗とポスター  戸井十月デザインノート

著者 戸井十月 1978年 晶文社 刊

☆ 「情況」2024年冬号

「すべての大学に立て看板を」大学立て看同好会・座談会

☆ 布川徹郎



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?