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違う道筋の小国:アンドラ公国

以前紹介したリヒテンシュタイン公国と同じ、アンドラ公国も二つの国フランスとスペインに挟まれて、ピレネー山脈の中に位置する山国です。国土面積は468km2、人口は8万人未満となります。

アンドラという地名が最初に出たのは古代ギリシャの歴史家ポリュビオスが書いた『歴史』という本の中に記録されています。古代ローマとカルタゴとの第二次戦争時、カルタゴ名将ハンニバルはアンドラでローマ軍を破り、ピレネー山脈を超えてイタリアに着きローマの背後を突撃しました。

アンドラは国として成り立ったのは中世紀になってからです。8世紀初期、北アフリカのイスラム教徒はジブラルタル海峡を越え、イベリア半島をほぼ全部占領しました。東北の境界線はピレネー山脈であり、山の向こう側はフランク王国です。両方は長くこの地で攻防を繰り返しましたが、フランク王カール大帝(シャルルマーニュ)の登場により、カタルーニャ地方を奪還し、さらにイスラムの防衛線としてこの地に沢山の領主を任命しました。

カール大帝

アンドラ地区はウルヘル伯爵の領地となりました、このウルヘル伯爵本来の領土はスペインカタルーニャ地方北側にあり、ほとんどの領土はウルヘル教区に属します。988年、伯爵はアンドラの土地を使って司教と他の土地と交換し、アンドラはウルヘル教区の所有地となりました。

数十年後新しい伯爵はアンドラを奪い返そうとしましたが、軍隊を持たない司教は隣のカボー子爵に救援を頼むと、司教と子爵はアンドラの共同領主となり、伯爵も諦めました。

数百年後、子爵の半分所有権はフォワ伯爵の手に入り、再び司教と所有権争いを始まり、互いアンドラを独占しようとしました。最後スペインアラゴン国王の調停により、フォワ伯爵はアンドラの世俗の統治権を持ち、ウルヘル司教は宗教の統治権を持ちます。

1483年フォワの女伯爵はスペインのナバラ国王と結婚し、アンドラの統治権もナバラ王国に継承されました。その後ナバラ国王ブルボン家のエンリケ3世はフランス国王を即位、有名なフランスアンリ4世となりました。こうやって、数百年の年月を経てアンドラ世俗の統治権はフランスのものとなりました。

しかし、フランスはすぐ大革命が起き、1793年フランス政府はアンドラの年貢を拒否しました。(アンドラ側はフランス革命政権を認めない説もある)これにより、ウルヘル司教はアンドラ唯一の統治者となりました。しかしアンドラの民が困りました、二人の統治者の時に互い牽制し合うによってまだ酷いことをしないので、一人の統治者になったら何かされるかが分からないと。

数年後、ナポレオンが皇帝となり、アンドラ人は再びフランスが統治するように皇帝に依頼し、ナポレオンもちょうどスペインへ拡張するつもりでしたので、フランス国王の権利は自然にフランス皇帝である私によって継承されるべきと主張し、もし異議があれば我々の砲兵の声を聞けば良いと。

しかし、アンドラ人の予想と逆に、数年後ナポレオンがスペインに出兵する際ついでにアンドラを完全併呑しました。1814年ナポレオン退位、アンドラは再び独立地位を獲得しました。そしてナポレオンの半分権利はフランス共和国元首(大統領)の手に入りました。

第二次大戦の時、アンドラは経済成長のチャンスを掴みました。戦時中立地位を保ちながら、スペインとフランス間の密輸で富を作りました。戦後欧州経済回復、アンドラは旅行観光に力を入れ、特に山地の特徴を利用して、スキー業を発展させ、昔の弱点を長所に変えました。本日のアンドラ一人当たりGDPは世界20位台、日本やフランスに近い。

1993年、アンドラ国民投票により正式に独立国家となり、ウルヘル司教とフランス大統領を名義上の共同元首となりました。


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