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ラバウルの奇跡

もしインパールの戦いは史上最悪な作戦なら、同じ時期太平洋戦場にあるラバウル島の出来事はまさに奇跡と言えます。

太平洋戦場は非常に厳しかった、米軍のアイランドホッピング(飛び石)作戦により、全ての島を攻めるではなく、戦力薄く重要な島のみ攻撃し、要塞化された島は補給線を断つことで自滅させるという戦術が使われ、多くな兵士が食糧不足でなくなりました。

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しかし、ラバウル島は例外でした。開戦時10万人の部隊は1943年から島に閉じ込まれてから餓死者どころかちゃんと三食を取れて、しかも近隣の友軍まで受入、終戦時部隊は14万人まで増えました。

この奇跡の誕生は彼らは大変良い指揮官に恵まれたからです。

指揮官の名前は今村均、太平洋戦争が勃発後陸軍出身の今村はフィリピン戦場に派遣され、ジャワ島の占領に命じられました。作戦中米軍の奇襲を受け、今村の船は味方魚雷に命中され落水、3時間をかけてやっと救い上げられました。海軍の謝罪に対し今村が快く了承し、事実を公にしなかった。

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その後今村はラバウルの防衛に命じられ、ここはまさに最前線でした。おそらく今村は部下に占領地の民を虐待しない、無意味のバンザイ突撃を禁じることによって上層部に嫌われたから最前線に飛ばされたかもしれません。

当時のラバウルはマッカーサーとハルゼーの部隊はハサミのように包囲しています。今村着任後油断することなく、すぐ島を要塞化し、鉄壁な防御によって米軍の上陸作戦を諦めました。

米軍は空爆と戦艦砲火で島の全ての空港を破壊し、島にいる日本軍を孤立させようとしました。これはのちにアイランドホッピング(飛び石)と名付けられた作戦の始まりです。

一方、今村は米軍が上陸後の決戦に備えていましたが、米軍はあくまでも空爆のみ行い上陸の気配が全くないため、敵の戦略が変わったことに気づき、すぐ島の全物資を回収し、配給制に変え、自救する準備を行いました。

いつまで続くすら分からない戦争を生き抜くため、まずは食料を確保しなければなりません。当時空からの補給はまだ多少ありますが、こんなわずかな物資で10万人の大軍では数日で食べ終わってしまいます。ラバウル島は原住民がいることを踏まえて今村は農耕の手段が必ずあると判断し、部下達に原住民を探し出し当地の農耕方法を学ばせ、武器装備で種と交換し、自ら農業を始まりました。

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当時の日本軍には数多く兵役に強いられた農民、今村は農民出身の兵士を教官として他の兵士に農業指導を行い、全部隊で開墾させ、いも、なす、かぼちゃ、大豆の育成を成功しました。またとある補給機が投下物資の中に皮のついたままの穀物があり、試しに蒔いてみたら成功どころか、熱帯にあるラバウル島は日照が多く1年間数回収穫できることが判明、これで食料問題は完全に解決しました。

ここから、今村は兵士達に農墾しながら副業をこなし、漁民出身の人は魚取り、養鶏の人は鶏を育ち、ヤシの実で酒を作ったり、油を抽出し砂糖を作ったり、最後醤油まで作りました。

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数ヶ月間でラバウル島はまるで桃源郷のように生まれ変わりました。他の島は食料のために殺し合いすら発生したに対し、ラバウル島の兵士は天ぷら焼き鳥を食べながら酒を飲んでいました。

食べることに困らなくなってから、軍人として流石に軍人らしいことをやらないといけないので、今村は理系出身の兵士を集め研究所を設立し、小さな武器工場を作りました。銃や弾薬はもちろん、建設機械や農業機械も製造して、一番不思議なのは墜落した飛行機残骸を使い、2台飛行機を作り出しました。

米軍の偵察を避けるために、今村は地下室を作り、武器弾薬や食料を地下に保存し、この地下空間は建築出身の兵士によって非常によく作り上げられていて、生活空間と保存空間も分け、独立のトイレや下水道もちゃんと設計されていて、島にいる日本軍もほとんど病気にかかったことがありません。

こうやってラバウル島は付近の日本軍残党を受入、1945年になるとなんと14万人の軍隊、備蓄の食料は10年間を維持できるまで成長しました。

1945年8月、終戦の知らせが届き、今村は部下に切腹を禁ず、誰一人も漏れなく祖国に帰ると命令しました。自ら同盟軍に接触し、投降の準備を進んでいました。

同盟軍はラバウル島の日本軍が投降したいの情報を受け、わずか三千人のオーストラリア軍を派遣し、投降を受け入れようとしました。おそらく島の日本軍もとっくにほとんど餓死したと思ったからでしょう。

オーストラリア軍の司令は戦艦で今村と対面し、面白い対話が残されていました。

「島には何人いる?」
「多くはない、14万人」
「嘘をつくな!」
「本当に14万人、一人ずつ名簿に記録している」
「こんな人数何を食べていた?」
「私達自分で農耕をし、備蓄も後10年間ある。あなた達が来て投降の受入を待っているだけ」

眩暈をしているオーストラリア軍司令を見て今村は補足して
「私達は本当に投降します、私は先に帰って少し準備してから来るように連絡しますよ」

島に戻った今村は14万人を総出でオーストリア軍の軍営と自分たちの捕虜営を作り、しかも両者の間有刺鉄線で区切られていました。完成後、歴史上イタリア軍しか起きたことのないシーンが起き、14万人は喜んで捕虜となりました。

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オーストリア軍上陸後これを見たどれだけ驚いたかは想像できます。

しかし、今村は非常に優秀な上司であることは再び認識できることが起きました。投降することはいいのですが、14万人をさらに1年間島に残れるように要求しました。なぜなら、今帰っても食べることがないと判断したからです。

一年後、1946年7月、島の日本軍は計画通り帰国し、彼らは大量な食料を持ち帰り、それを売ることで生活を立てるようになりました。

一方今村大将はオーストラリア軍事裁判所で10年間の禁錮となり、オランダとインドネシアは無罪(東南アジアでの平民殺害や捕虜虐待がないから)。

1954年刑期満了で出所し、1968年死去、享年82歳。


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