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フィンランドのランボー

もしランボーが銀幕の中の英雄なら、彼を凌駕する本物の英雄がいるだとしたら、その名は「ラリー・ソーン」です。

彼は生涯三つの国に服役し、冬戦争、第二次世界大戦、ベトナム戦争を参加し、死後アメリカのアーリントン国立墓地に埋葬されました。

ラリー・ソーンは1919年フィンランドに生まれ、1938年に軍に入り、翌年ソ連との冬戦争が勃発しました。当時長官から敵に包囲された友軍に手紙を出すという任務を受け、見事に敵の哨戒網を潜り、さらに見方の哨戒網も避け、いきなり司令部に現れ、危うくスパイだと認定されてしまうという。

この後すぐ再び試練が訪れ、彼が所属する部隊がソ連軍に包囲され、窮地に追い込まれた長官が大部隊を敵の注意を引き、ソーンに3名の兵士を連れて敵の補給基地を破壊するように命じました。

もちろん問題なく補給基地を破壊した上、帰る前に敵の拠点を潰しました。補給が絶えたソ連軍は撤退するしかなかった。

これを機にソーンが有名人となり、軍事学校の勉強機会も得られました。しかし、ソ連との停戦1年後の1941年、戦争が再開しました。ソーンは小隊の指揮官として活躍し、ゲリラ戦法であちこちソ連の進軍を撹乱しました。彼に対し、ソ連は5000ドル相当の懸賞金が出され、当時は決して少ない金額ではなかった、もちろん彼はこの待遇を受けた唯一のフィランド人です。

1944年、フィランド政府はソ連との停戦しました、兵士達も解散させられましたが、特殊待遇を受けたソーンがやむを得ずナチス・ドイツの武装親衛隊に入り、引き続きソ連との戦争を準備しました。しかし、当時のドイツも末路に向けていたため、敗戦する前に再びフィンランドに戻りました。

戦後、フィランド政府はソ連の圧力で彼を監禁しましたが、途中脱獄しアメリカへ亡命しました。

当時のアメリカは冷戦下で入籍は非常に厳しかったため、戦友を頼んで戦略情報局長経由でまさかのアイゼンハワー大統領特別許可を得てアメリカ籍を得ました。おそらく史上最強の裏口入籍でした。

この後すぐ彼はアメリカ陸軍に入り、第10特殊部隊に所属し、主に「青軍」つまり敵軍を演じていました。とある演習で彼は仮の敵軍の総指揮官として命じられ、相手はアメリカのエース部隊82と101空挺師団でした。殲滅される予定の「青軍」がソーンの指揮下で遊撃戦を繰り返した挙句、見事に耐え抜きました。

彼の才能を認識したアメリカ軍上層部はすぐ彼をベトナム戦場へ派遣しました。当時のアメリカ軍は北ベトナム軍のゲリラ戦法に翻弄され、全くなす術がなかった。

ソーンはベトナムに到着すぐ小部隊を率いて、ゲリラ戦をやっている北ベトナム軍の裏庭でさらにゲリラ戦を繰り返しました。彼は敵を消滅するのは最も効果的な戦法ではなく、相手に恐怖を感じさせるのが目的であると、北ベトナム軍に潜り小型爆弾を相手の銃に仕掛け、引金を引けば爆発するように設定しました。

これから北ベトナム軍がよく原因不明の武器自爆事故が発生し、武器を使うことを拒否する兵士も出てきました。これを機に北ベトナム軍のゲリラ戦も大幅に減少しました。

さらに、ソーンは南ベトナムで軍事訓練を行い、民兵を組織し、半年足らず彼は北ベトナム軍が最も憎い存在となりました。

1964年4月、北ベトナム軍はソーンを消滅するため、民兵の哨戒交代の隙を狙って攻撃を行いました。北ベトナム軍の慣行として、まず南ベトナム民兵の中にスパイを入れ、戦闘が起きたら重機関銃陣地を奪いさせ、一気に制圧する方法です。

今回も同じ、スパイに重機関銃を奪われたことを確認したソーンは冷静にリモコンを出し、事前に機関銃陣地に設置済みの爆弾のスイッチを押し、見事に相手の策略を看破しました。しかも爆弾の威力も事前に最小限に設定して、スパイだけを殺して機関銃が無事に残されるように。

こうやってラソーンは7名のアメリカ兵士と200名の南ベトナム民兵を率いて北ベトナムからの千回以上の戦闘を耐え抜いました。

アメリカ上層部は彼の価値を考え、前線から引かせ、情報官として敵情報の分析に専念させましたが、これを逆に彼の命を奪うこととなってしまいました。非常に普通な移動で乗っていたへりが事故に遭い、このまま伝説の一生を終えました。

1999年彼の遺体が見つかり、2003年アメリカのアーリントン国立墓地に埋葬されました。彼は唯一ここで埋葬された元ナチス・ドイツ武装親衛隊メンバーでもあります。

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