「好きなことを好きに書くのがいいんだよ」

 最近note用の文章書いてないです、すんません。ちゃんと生きてます。それでこっちでも何か書いておいた方がいいかなぁと思ってnoteのエディタをバッと表示させてみたのですが、そんな動機でなんとなーく書いていきます。

 自分が書いている文章は誰のための文章なのか、っていうのが曖昧だと書くのが難しいと思うんだよね。今回は「今潜在的にこんなことを考えているよ」っていうこの文章を書いている人への精神からのお手紙で、身体を操っている脳みそに「こいつヤバイ、何とかしないと」って思わせるだけの文章です。だからこんな風にダラダラとしている文章だし、かなり好き勝手に書いている。こんなこと書いていいの? とか、あんなこと書いたらダメかな? とかそういうことは一切考えない。こういうこと書くと首ちょんぱとかセックスとかそういう単語を並べたくなるけれど、そういう小学生みたいなことは今回やりません。

 で、「好きに書く」ってすっごく難しいことなんじゃないかって最近思うのです。よくこんなやりとりあるじゃん。

「ブロガー初心者ですよろしくお願いします!でも何を書いたらいいかわからなくて……」
「ブログは好きなことを好きに書けばいいんですよ!」
「わかりました、ありがとうございます!おっぱいおっぱい!」
「うわー、下ネタはキツイですよ(汗)」

 正直、自分で書いていて反吐が出るやり取りだ。そしてすっごくどうでもいいことを書くと、「おっぱい」は上半身についているから下ネタにはならないんじゃないかって思ってる。でも「下半身が反応するもの」って考えると下ネタに相当するのだろうか。そんなこと言ったらわき毛の剃り残しとかピアス穴とかツインテールやニーソックスに反応する人がいたら、それらも全部「下ネタ」になるのだろうか。果てしなくどうでもいい。

 話を戻すと、「好きなことを書けばいい、だからブログは自由だ!」とポジティブに捉えているのって何だかみっともないよなぁと思うのです。自由だからこそ「何かを書く」ということは孤独であり、永遠に群れることは出来ない修行なのだと思います。一緒に孤独を分かち合う人は存在しても、それは決して孤独を解消するものではなく「孤独なもの同士の交流」でしかないのです。「そんな覚悟でブログをやっていたら疲れる」だのなんだの言うんだろうけど、文章を書いて金を稼ぐとかそういうことを言うならそういう覚悟が必要だと思うんだよ。

 「自由には責任がつく」って言う一般論があって、何かを好きに行うためにはそれに見合った責任が必要だ。無責任なものはそのままにしておくと危ないので監視の必要がある訳で。何かを発信している人はその文責を追わなければならない。それで対価を得るのであれば、なお一層注意をしなくてはいけないわけで。

 そういう基本的なことが抜け落ちて「文章を丁寧に書く」という概念から「そんなのウザイし」と言われているようでは世の中も末法に近づいていると言うところだ。弥勒菩薩も「56億年後とか言ってたけどアレ入力ミスだから、実はあと3年くらいなんだ」みたいなこと言い出すかもしれないってくらい末法。就活ならぬ終活が流行っているので、次は浄土への正しい生き方本が売れるんじゃないだろうか。

 そんなことを並べたところで話の大元の「ブログには何を書けばいいのか」っていう答えになっていないので私なりの答えを載せておきます。

「自分で考えれば?」

 要は言い方の違いなんです。「好きに書く」というとポジティブおじさんがやる気ご飯をおかわりできそうなキラキラした響きなのですが、つまりこの答えと何にも変わらないわけです。「好きに書く」っていうのは「私、あなたのことを応援しているわ! フレーフレー!」と言いながら重い荷物を持っている人の脇で旗を振っているような響きがあるなぁと思うのです。いや、お前が手伝えよって感じ。

 というか、「何かを書く」なんてカルマの重たい荷物を勝手に背負って「うえーん重いよう、誰か手伝って」なんて個人的には「ふざけるな、ゴタゴタ言うなら辞めちまえ」以外言えないんですよね。穏やかに言うならば「向いてないことはしなくていいのよ」っていうことです。自分自身で悩んで自分の答えを出せれば良いんだけど、他人のコメントで一喜一憂してどこに向かっているのかわからないコメントを残す。うーん、不毛。この人は「何かを書く」ことがしたいんじゃなくて「何かを書いて褒められる僕を見てほしい」なんだろうなぁと思うのよ。その内面に気付いているのかいないのか、そういうところから目をそらそうとするから余計に中身のないものが量産される。そんなんでいいんだろうか。

 最近は「中身がないものを『中身がある』と信じて持て囃す」というのがトレンドみたいです。中身をみたことがない人にとっては振れば音がするような中身でも「中身」に見えて、「うわ中身入ってたすごい!」になるのかなと思います。

 なんだかごちゃごちゃしてきちゃったのでまとめると、「好きに書く」っていうのはすごく難しいことで、もともとの「中身」がないとそれについて「好きに」書くことはできない。でも「中身」のない人は「中身」の存在を知らないので「中身」を認識することはできない。だから「中身のない好きに書いた記事」が量産されていくのかなぁと思うのです。

 じゃあ「中身」ってどこにあるの、って話になるんだけど、それは個人で見つけてよ知らねーよっていうのが大まかな主張です。自分で書きたいことくらい、自分で決めればいいじゃない。自分が書きたいんだから、自分で面倒見なよ。

 なんでこんなん書いているのかよくわからなくなってきたので終わる。多分疲れているのよ、多分。

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