路地裏に捨てられたい人生だった

 ネットの承認欲求がどうのこうのと問題になると、大体「お前は何なんだ、からっぽのくせにやかましい。人間になってから喋れ」みたいなところに最終的に行きつく。それでまた自我崩壊実験じゃないんだけど「お前は何だ」に戻ってくる。そいつの答えが出ない限り、この泥沼の戦争に終わりはない。何がラブアンドピースだ。

 で、どうして「お前は何だ」に戻ってくるのかと言うと人間って生まれてから名前を与えられて、その名前と環境の枠組みで型にハマって「人間」として形成されるわけで、実際はその「名前」に人間として認めてもらっているわけだっていうことなんだと思う。

 よく「名前と出身地を抜きにして自己紹介できる?」という意地悪なことを言う。そして大抵の人間は黙る。かろうじて「サッカーが好き」とか「趣味は漫画」とかそういうことをぽつりぽつりと語り始める。そして「どのくらい?」と聞くとまた黙る。そして「自分が自分であることを証明する」ことの難しさにぶち当たる。必死で証明し続けるのも楽だが、「証明なんて無理!」と開き直るのもまた難しい。「ナンバーワンにならなくていい。もともと特別なオンリーワン」というのは互いが互いを尊重する環境であれば有効だけれど、「他人」というものが存在しない世界ではただの戯言になってしまう。

 そんな悪魔の証明にも似た「お前は何だ」に対抗できるのが「生まれも育ちもよくわからない」というもの。名前はもちろん、出身地や性別に生育環境、更に現代では「世代」というのも十分人間を規定する要素になる。それを全て外したときに自分は自分でいられるのか。己が己でなくなることに恐怖を覚えるならば全力で「他己」を攻撃するのかもしれない。それがネットでいうところの過剰な「叩き」に繋がっていると最近思っている。みんな自分に自信がないから「俺とお前は違うんだ!」と主張したい。いじめをはじめとした過剰な他人叩きは「自信や自身のなさ」の発露に似ていると思う。

 みんなが出自不明の環境で暮らし始めたらどうなるだろう。それでも他人は他人と割り切ることができず、他人の名前を羨んで他人を攻撃し続けるだろうか。それとも自らを表現することを諦めるか。または、完全な他人の痛みなどわからないとフィジカルな暴力が横行するのか。それはそうなってみないとわからない。ただ、自分を証明してくれるのは自分を愛してくれる人であって暴力なんかではないと思うのである。つまりラブアンドピースってわけです。あれ? 


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