欲しいものは自分で創れよ

 ブログに書こうと思ったけど、noteで書くとどうなるのかと思ってnoteで公開します。

 一応お話創る勉強したり、実際にお話創ってみんなで見せ合いっこしたり、あと他の芸術をやったりしていたところから言わせてもらいます。基本的にどんな作品でも作者の魂みたいなものがあって、それを削って「表現」にしているわけね。それは絵でもダンスでも映画でもなんでも同じ。それがあるから「表現」は輝く。だからそこをくみ取らないであーだこーだ言っても「こいつわかってねぇなぁ」という不快感しかないわけ。それを言えちゃうのも言論の自由なんだけど、「こういう表現は見ていて不快だから禁止するべきだ」なんていうのはやっぱり「創る」という観点でみるとおかしいと思うのね。

 もちろんある表現を不快に思う人がいるのは仕方ないと思う。自分なんかはどう見てもAKB商法的なのはパネルに並んだ商売女を連想させられるから好きじゃない。でもそれを見て「頑張っている普通の女の子を見ているのが楽しい」と思って応援している人もたくさんいる。どっちが正しくてどっちが間違っているということでもない。AKBはこの世にいてもいい。

 例えば散々ひどい意味で話題になった『艦これ』のアニメは個人的には結構好きだ。脚本がひどいのはどう見ても仕方ないけれど、「最大公約数の賛同を得るために必死であっちを立てたりこっちを立てたりしたら、どこも立たなくなった結果がこれだよ」的な製作者側が各提督たちに必死で媚びた跡がうかがえたのがよかった。何となく方針が見えないようでそんな方針があったんじゃないかっていうのが全体的に見える分、割と誠実な脚本だと思う。つまり、作者が何をしたいのかがわかるものが割と好きだ。できれば次回作は製作者側の『艦これ』の世界を見たいけどね。

 で、本題に入っていくと「作者の言いたいところ」じゃないところの要素を挙げ連ねて「この作品はひどい」っていうのは批評でも批判でもなんでもなくて、ただのイチャモンだと思うのね。「この表現は不快である」というだけならいいけど、その意見に賛同して「みんなでこの作品を叩きましょう」みたいになるのは本当に勘弁してほしい。逆もおんなじ。別に作品の中心でない部分を「この表現は素晴らしいから褒めるべきだ」となって「みんなで声をあげてこの表現が全ての作品に加わるようにしましょう」とか狂気の沙汰だと思う。はっきり言うと「バカじゃねーの」っていうところ。

 具体的に言うと年末年始あたりにあった「ベイマックス上げ、ワンピース下げ」みたいな流れが当然みたいな社会って、社会的には正しいのかもしれないけれど何かを創っている側からすると「なんで社会の都合に合わせて作品を作らなければならないんだ」ってところだと思う。要は「ベイマックスは男女平等な感じが好感なので面白い、ワンピースは男尊女卑だったり女キャラが露出高かったりするから面白くない」とか、作品の面白さって言うのはそういうところで決定するものじゃないと思うし、その部分だけ見て「面白さ」を強調されても困る。非常に困る。

 『ベイマックス』は確かに面白い。アニメーション映画としてナノロボットがじゃらじゃら画面を縦横無尽に飛び回るところの表現とか、ヒロが成長していく過程とか、素敵な仲間たちで力を合わせるとか、用意周到な伏線とか、そういうところは非常にいい。特に伏線はほどよい感じで張り巡らされていて「これがここに繋がるのか!」というカタルシスが絶妙だ。その辺は評価されるべきだと思う。そういう部分をすっ飛ばして「キャラクターの男女比や扱いがいいからスバラシイ」みたいな話になって、「やっぱりディズニーね!日本のアニメはダメだ!」みたいな感じで『ワンピース』を下げていたのは本気で引いた。別に『ワンピース』そこまで好きじゃないけど、作者の人格否定までされていてちょっとかわいそうだった。

 別にイヤならイヤで全くいいと思うの。自分だって嫌いな表現くらいあるし、「これは嫌いだなー」って言いたくなる時もある。でも、でもね。「禁止するべき」とか「かならず配慮されなければならない」とか、そこまでする必要はあるのかなぁと思うのね。

 何でここまで熱くなってるのかというと、完璧な社会的正しさを創作物に求め始めると本気で言論統制が始まりかねないって思っているからね。既に「この表現は偏見に基づいているからこの作者は変な人だ」「よし叩こう」みたいな動きがあちこちで起こっているのね。「変な人だ」までならいいけど、「よし叩こう」はおかしい。基本的にオカシイ。何度も言う。おかしい。前に「この意見は非常に不快でしたが、最初の方は賛成が多かったので悔しかったです。でも後で反対派が増えて嬉しいので私も叩きます」みたいなコメント見たときは「ちょっと待って何言ってるかわかんない」ってなった。

 今流行のラッスンゴレライだって「つまんない」って思うのは自由だし「つまんない」って言うのはいいと思う。例のデマも最初に「ちょっと陰謀っぽいよなへへへ」みたいにネタとして語っていた分には内輪ウケで終わっていたと思うけれど、それを利用して何だかんだと叩いている人たちは正直みっともないと思う。8.6秒バズーカは、「しばき隊」のしばきの的に運悪く抜擢されただけなんだと思う。誰だって失言のひとつやふたつはするし、そこを徹底的に「こんな発言をしたからこいつは悪者だ!」というのはおかしい。逆もありで「こんなに素晴らしいことを言うからこの人はゼッタイな善人だ!!」みたいなのもおかしい。カルト宗教のはじまりはじまり。

 つまり何が言いたいかって言うと「いろんな作品に個人を飛び越えた社会的文句をつけるならそれに対抗する作品を作れよ。欲しいものは自分で創って楽しもうよ」ってことね。こう言うと「それが出来ないからこうやって文句を言うことくらいしかできないんです」「どうせ創っても誰も見向きもしないでしょう」「差別の再生産乙」みたいなこと言われるだろうけれど、そんなの知らねーよ。創作の世界においては、居場所は自分で創るもの。文学的解釈と社会学的解釈はイコールにはならない。はいおわり。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?