圧倒的ダメ人間に関する雑感

 タイトルにしたけれど、意外と「ダメ人間」っていないものだと思う。そもそも自分を「ダメ人間」って言う人はそんなにダメな感じはしない。自分のことを「よい人間」って思っているほうがダメ人間に近いと思う。自分のダメなところを見ないふりしているから、「よい人間」なんて言えちゃう。厚顔無恥とはこのことか。

 どうにも自分は周りに「よい人間ヅラ」した人間に囲まれて育ったせいで、そういう取り繕った態度の比較対象にするためにひたすら下げられた価値観を植え付けられてきたところがある。年下だから劣っていなくてはいけない、とかそんな感じ。いわゆる「相対主義」の中で誰かをヒエラルキーの下に置かれることで、上になって満足するような連中がいるのは仕方ないことなのかもしれない。彼らに自覚はない。完璧じゃないんだ。

 だけど、それを聖人君子のように許せばいいのかと言うと、そうでもないと思う。ダメ人間になることを恐れ、完璧に近づくのであれば全てを受け入れ、全てをなかったことにしてやるのもひとつだと思う。「毒親問題」もそうだけど、「許す」という行為はそれほど尊いことではない。単なる逃避にしかならないときもある。「許してやった俺エライ」になったり、表面上はうまく言っていても納得しきれていない部分で心と体のバランスが崩れて自律神経失調症になったり、ろくなことがない。心と頭と体を制御するのは意外と大変だ。全てを完璧に制御できるわけがない。ある程度成り行きに任せたり、社会的に問題がある行為でも常識の範囲内でぶちまけるのもアリだと思う。

 自分がダメ人間って落ち込むんじゃなくて、ダメ人間が規格だから少しでもいい人間になろうっていうのがいろんな宗教の出発点のような気がする。ダメ人間はマイナスじゃなくてゼロ。そこからプラスにしていけばいい。

 まぁ生命が誕生してから完璧な生命なんて存在しなくて、そもそも生命なんていつかは死んでしまうんだから不完全の連続が生命としての正統派なんじゃないかって思う。不完全をどれだけ受け入れて生きていけるかっていうとそれは確かに辛い。でも、そこを乗り越えた人間は強い。それだけなんだと思う。

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