独断論と相対主義 人それぞれ

 西洋哲学はタレスから始まると言われるが、タレスは独断論者である。この世は「水でできている」という現代人にはよく分からない哲学を吐いている。そのあともアナクシマンドロス、アナクシメネス、エンペドクレス、パルメニデス、ヘラクレイトス、デモクリトスなど「この世は〇〇でできている」という独断論者が様々に現れる。独断論者がいくら集まっても、誰が正しいのか分からない。

 そこに現れたのがソクラテスで、ソクラテスは「対話」によって、真理を目指した。いわゆる「弁証法」だが、対話によって独断論を消去するといった方法は、かなり有効だと思う。弟子のプラトンは初期は対話哲学を書いていたが、中期からは「イデア論」という独断論に陥ってしまう。
 アリストテレスから影響を受けたスコラ哲学が独断論として数世紀続き、デカルトがその状況を覆した。デカルトは全てを疑いの渦に巻き込むことで、「疑っている我」を取り出した。そこまでは誰でも「追試」することができるので独断ではないが、その後の神の存在証明などはかなり独断的である。
 デカルトからスピノザやライプニッツなど、「合理的に考えた独断」の哲学者とバークリーやヒュームなどの「目に見えるままの懐疑」の哲学が現れる。二つの哲学を融合させたのがカントだと言われるが、カントも相変わらず独断論だと思う。ヘーゲルに至って「弁証法」をそのまま自分の哲学に組み込むという荒業が行われるが、相変わらず独断である。
 独断論というのは、その哲学者の鋭い「洞察」を読むことができるが、「俺はそうは思わない」という人に対して、武器を持たない。二つの独断論者がいれば、その独断はただちに相対論になる。

 ニーチェは独断論を蛇蝎のごとく嫌ったが、やはりニーチェも独断だと思う。ニーチェの場合は自覚してやっている節がある。「哲学」や「道徳」など「趣味」に過ぎないといって、自分の哲学は貴族道徳だという。特に根拠はない。

 ポストモダンは、懐疑論と相対主義の巣窟だ。そして現代の潮流は独断論に走っている。メイヤスーとか、ハーマンとか、マルガブとかは独断論だが、独断論というのは、原理的に「どの実在が正しいのか」が分からない。そしてまた相対主義に陥る。

 現象学は、結構「独断論」と「相対主義」を調和させられると思っているが、まだ頭の中で整理できていないので、今度詳しく書こうかな。

 僕は科学という方法は、相対主義でも独断論でもない優れた方法だと思う。「追試」が可能だからだ。「誰がやってもそうなる」という真理がなければならない。

 宗教を考える。
 中学生の時に、世界に三大宗教があると聞いて、三つも神がいるのなら、全部嘘じゃないかと思った。今までの言葉で言語化すると、複数の独断論があれば、相対主義に没落する。俺の神が正しい、お前のは間違い、という主張がいくらあっても、相対主義に陥らざるをえない。
 
 ただ、仏教は相対主義ではないと思う。なぜなら「追試」が可能だから。釈迦が活躍していた頃のインドは現代のように思想が混乱していて、混沌とした状況だった。全ては物である、という人がいたり、道徳は存在しないという人がいたり、全ては宿命だと言ったりする人が溢れていた。全て独断論である。
 「俺の考えを受け入れろ」と迫らずに「観なさい」と言った点で、釈迦はどの思想家よりも卓越している。自分の身心を観察していると「無常」や「無我」が観えてくる。誰にでも追試可能という点で、独断でもないし、相対主義でもない。否定神学や神秘主義に陥らず、「観る」ことができる。

 独断論と相対主義は手を携えているが、僕はこの二つを調停するには、「対話」か「瞑想」か「暴力」しかないと思っている。対話など理想に過ぎないので、結局暴力が解決するんだと思う

勉強したいのでお願いします