誠実さについて 謙虚さについて 傲慢について

 カントのとき自己欺瞞の話をしたのを覚えていますか。あの問題が恐ろしいのは、自分の自己欺瞞に気づいた時、気づいたというその思い自体が自己欺瞞かもしれない、というところにありました。自分を、自分の自己欺瞞に気づいてそれを正直に認めることができるほど誠実な人間だと思いたい、という欲求がそこにあるかもしれないからです。内面の法廷は、被告人も被害者も目撃者も、弁護士も検事も裁判官も、みんな自分です。(中略)
 自分の中の否定的な要素をありのままに、つまり誠実に認めるというやりくちは、つねにワンランク上の価値を手に入れるための手段になっていきます。

倫理とは何か
永井均

 近代の最大の道徳価値は「誠実さ」であるが、それに到達した哲学者は一人もいなかった。キルケゴールやニーチェが誠実さの問いを提出してから、サルトルが自己欺瞞や対他意識の問題を鋭く考察したが、時代は「主体の壊乱」の方へ向かい、「戯れ」という言葉が流行った。
 それでも、僕は誠実さという徳が一番大切なように思う。理由は分からない。性癖だと思う。

 僕は、傲慢である。僕は傲慢であるという主張の対人的な意味は「僕は自分が傲慢だと認められるぐらい謙虚なんです」となる。神仏に告白する場合も同じだ。
 浄土真宗の篤信者に浅原才市という人がいる。下駄職人をしながら、ノートに詩を書いていたらしいが、かなり泣ける。

わたしゃ あさまし
貪欲(とんよく)が子を産んで
瞋恚(しんに)の名をつけられて
瞋恚が子を生んで
愚痴(ぐち)の名をつけられて
また貪欲の孫を生み
わたしゃ あさまし
また瞋恚の孫を生み
わたしゃ あさまし
またまたあさまし愚痴の子を生み
このあさましがひまごにひいまご生んで はずかしはずかし・・・・・・

 こういうテイストの詩が何千とある。人間という生物が有限者である以上、「謙虚」というのは「無限の懺悔」しかありえないんじゃないだろうか?

 僕は傲慢である、と自分で認めているから謙虚であると勘違いしているから傲慢である、と認めているから謙虚である、と勘違いしているから傲慢である、と認めているから謙虚である、と勘違いしているから傲慢である・・・。

 「反省」というのはクソの役にも立たない。「反省する俺」は傲慢そのものだからだ。傲慢が反省している。

 完全に脱出不可能だ。出口なし。誠実になれる人など一人もいない。

 と思っていたけれど、人間の生理的な機能に答えがあった。どういう理屈なのか知らないが、仏教で「念」と言われている機能を育てると、「あるがままの自分」が変容していく。「気づく」という能力を育てると、傲慢な自我がその中で溶けていく。「自我」というのは「傲慢」の言い換えだが、自我は錯覚だと見抜くことができると、自然に死ぬ。意識の覚醒度と高める訓練をすると、意識の大海の中で自我がおぼれ死ぬ。

 「誠実さ」「謙虚さ」というのは「思い」の中で解決することは絶対にできない。いくら反省をしても謙虚になることはできない。「頭」自体が傲慢であるので「頭の中」で解決することはできない。
 だから「頭の外」で解決する。呼吸に集中して、雑念を手放す。気づきながら生活を送ってマインドフルネスを育てる。膝を曲げて坐禅をする。

僕の誠実さが僕を磔刑にした。

二十歳のエチュード

 

勉強したいのでお願いします