不足とは過剰である

 釈迦は、糞掃衣というぼろきれから縫った服を着て、乞食をしながら遊行した。しかし、なんの不足もなく、世界で一番豊かだった。
 うちの猫も同じように見える。服すら着ていないし、所有物など一つも持っていないが、何も不足しておらず、悩みなど存在しないようにずっと寝ている。

 物質の多寡が「不足」と関係しないならば、一体不足とは何なのだろうか?答えは「言語の過剰」のように思える。
 人間の心というのは「言葉」から成り立っている。「考える」には必ず言葉が必要になる。もし、うちの猫に「PS5がない」という言葉が浮かべば、不足感に悩まされて、豊かさは破壊される。

 「あの人の顔が羨ましい」「お金が足りない」「服が欲しい」「悟りを開きたい」「こんな小さな家は嫌だ」などの言葉が過剰な故に、人間は不足になる。「不足」というのは「物がない」ということではなく「言葉が多すぎる」ということである。

 では、言葉を減らすにはどうすればいいか。人は「ピンク色の象のことは絶対に考えないでください」と言われると、逆に考えがピンク色の象に染まってしまう。「お金のことは考えないでください」「異性のことは考えないでください」と言われても同じことだ。逆に言葉が増殖する。

 言葉を無力化すれば、豊かになるのだけれど、言葉を言葉でやっつけようとしても、血で血を洗うことにしかならない。だから、坐る。静かに坐っていると、頭の中に渦巻いていた言葉のボリュームが下がっていく。泥水をあるがままに置いておくと、泥が沈殿して水が綺麗になる。「言葉」の一つ上の「身体」という次元で言葉を無力化する。そうすると言語の過剰がなくなり、ひいては不足がなくなり、豊かになる。

はだかにて生まれてきたに何不足

小林一茶

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