仏教徒の考える一神教

 フォイエルバッハは、神を人間の本質の対象化とした。そして人間の本質とは愛であるから、神は人間の「愛」を純粋にしたものとなる。神は人間が自分を投影した幻影であるから、その投影を取り戻すのがフォイエルバッハの唯物論である。

 僕も「神が自分に似せて人間を創った」のではなく「人間が自分に似せて神を創った」のだと思っている。特に一神教の神はそうだ。けれど、「人間の本質」というのは「愛」ではなく「自我」だと思う。そして自我というのは「判断」だ。人間の場合「判断」というが、神の場合は「裁き」という。
「これは良い、悪い」と判断するのが自我だ。

最高の真理に至るのは難しいことではない。ただ取捨、憎愛の念を起こして、選り好みをするのを嫌うだけである。ただ憎むとか愛するとかがなければ、それはこの上なく明白になる。しかし、そこに少しでも差誤が有れば、天と地のように遠く隔たってしまう。

信心銘

 善である神、悪である異教徒がいる。一神教は歴史の上で何度も虐殺や戦争を行ってきたが、「我々/彼ら」「善/悪」という二元論や部族主義を加速させるからだと思う。そして、それは神の本質であるから、神を廃さない限り終わらない。

 20世紀の代表的な無神論者にサルトルとカミュがいるが、サルトルが「恥」の問題を扱っていること、カミュが「弁護士」の小説を書いていることがよく分からなかったが、神が死んだ世界での裁き、みたいな問題意識があったんだと思う。
 アダムとイブが知恵の木の実を食べて、お互いの裸を見て恥を感じたのは有名だが、サルトルも、人間の意識は他者の「まなざし」の前では「恥」を感じて、物質のようになると言っている。サルトルが挙げている例では、のぞき見をしている男が、その現場を急に他人に見つかって、その「まなざし」に急所を打たれて、恥で動けなくなってしまう。裁きの原型のようなものだと思う。
 神が死んで、人間が神になる。SNSを見れば人間が神になったことが分かる。全員が批評家だ。

 僕は宗教が嫌いだ。傲慢だから。裁くから。「我々が絶対に正しい」として、相手を攻撃するのはおかしいと思う。キリスト教もユダヤ教もイスラム教もなくなればいいと思う。仏教もいらない。スリランカでは仏教にカースト制度が導入されて差別の温床になっているらしい。そういう仏教はいらない。仏教も「我々意識」を強めることになるのなら、なくしたほうがいい。

 リチャード・ドーキンスなどが先導して、無神論を推し進めているが、僕も今後の人類は無神論であるべきだと思う。戦争になるから。実際に現在も宗教戦争が起きている。
 宗教に救われた、と言っている人を何人も知っているが、救われた人がいても、その宗教で一人でも死者が出るのならダメだと思う。まして戦争をしているんだから、絶対になくしたほうがいい。人類の今後の課題だ。無神論の人はもっと啓蒙を頑張って欲しい。

 「全ての神は同じ真理の多元的な現れ」という形での信仰しか、戦争を防ぐことはできないと思う。ラーマクリシュナや遠藤周作、ジョン・ヒックなどがこういう形態の信仰をしていたが、これなら良いと思う。

 キリスト教もイスラム教も仏教もいらない。そういう世界になったらいい

Imagine there's no countries
(想像して、そこに国なんてないと)
It isn't hard to do
(そんなに難しくないよ)
Nothing to kill or die for
(殺すことも死ぬこともないんだ)
And no religion too
(そして宗教もなくて)
Imagine all the people
Living life in peace
(想像して、全ての人たちが平和に暮らしていると)
You may say I'm a dreamer
(あなたは私のことを夢見がちだと言うかも)
But I'm not the only one
(でも、僕一人ではないはず)
I hope someday you'll join us
(いつかあなたも、僕たちと一緒になって)
And the world will be as one
(そして世界が一つになるんだ)

Imagine

勉強したいのでお願いします