美しい地獄 差異について

 「反逆の神話ー反体制はカネになる」という本を読んでいる。要約すると、こんな感じ「カウンターカルチャーの人間は、"社会に順応して歯車になること"を悪だと考えているから、文化・社会そのものを覆すために無意識に存在する(とフロイトが主張した)性的衝動や攻撃衝動を解放することを目指す。それがギャング文化だったりフリーセックスだったりするが、実は文化に抑圧された「無意識」など存在しない。「他人と違うアイデンティティが欲しい」という消費主義的な競争しか存在せず、カウンターカルチャーというのも「凡庸に生きている凡人とは違う解放されたオレ」という記号を消費するものに他ならない。カウンターカルチャーはむしろ資本主義を肥らせる。」

 「現代人は他人との差異を消費する」みたいな言説はうんざりするほどあるが、それって別に現代だけの心理ではないと思う。名匠が造った刀を欲しがる王とか、紫の袈裟を欲しがる僧侶とか、中国から取り寄せた茶碗を死ぬほど欲しがる大名とか。「特別な物を手に入れて他人より優位に立ちたい」という心理は人間に元々備わっていると思う。じゃあなぜ20世紀後半になってからそういう言説が増えたのかというと、「神が死んだから」「道徳規範が崩壊したから」「大衆が裕福になったから」だと思う。真善美、の真と善がなくなってしまった。日本人に「真」があったのかは諸説あると思うが、少なくとも念仏や坐禅などは真理を求める営みだと思う。明治時代に書かれた念仏の本を読むと「真理を知りたい」という情熱が溢れている。現代も新興宗教の勢いが強いが、それはここでは無視する。個人主義、自由主義の波で道徳も壊れていると思う。

真も善も生きる指針にならないのなら、美しか頼るものがない。神と道徳を憎んだニーチェが「生存は美的現象としてだけ正当化できる」と語るのは当然だ。ただ、その美的現象というのはニーチェの想像したようなものではなく、即物的な消費主義に過ぎなくなっている。

 いつの頃からか、女性はネイルをするのが当たり前になった。僕の記憶では10年前はそんなものなかったと思う。よく分からないけれど、骨ストとかブルベとか、美への欲求は留まることを知らない。

 『僕はファッションに疎いので服のことは分からないが、自撮りを見ると物凄いオシャレだなあと思う。「働きたくない」と言っている人に「なんで働くの?」と聞いたら「服が欲しいから」と言っていた。アスペが酷かった時に「なんで布切れに大金を払うの?」と質問して絶交されたことがある。
 僕と会ったことのある人なら分かると思うが、僕はASDのせいで身だしなみが全くできない。服を裏返しで着ていることもあるし、髭は未だに自分で剃れないし、美容院に行ったこともない。』

 『』でくくった文章は、僕が思ったことを書いたつもりだが、これも「差異の強調によるアイデンティティの獲得」なのかもしれない。というか多分そうなのだと思う。『ファッションに無頓着なオレ』というのはアイデンティティになる。

 美に執着して洋服を買いまくっても、美を拒否するそぶりを見せても、競争から抜けられない。
 
 「差異」というのは「比較」から成り立っている。「クール/ダサい」といった美の地獄から抜け出すには、まあ例の如く「瞑想をして自我を滅却せよ」ということになるが、それだと芸がないのでもう少し考える。

 「良い美」と「悪い美」があるように思う。悪い美というのは、外車を乗り回して、流行の服を買い漁って、ネイルを頻繁に塗り替える。僕の思う「良い美」というのは「美学」だ。短期的な流行の美を追い求めるのではなく、自分の人生でかけがえのないものを一生をかけて追及する。それも「短絡思考の俗物とは違う」という差異になってしまうのかもしれないが、まだマシな差異であると思う。

告白。――僕は最後まで芸術家である。いっさいの芸術を捨てた後に、僕に残された仕事は、人生そのものを芸術とすること、だった。

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