近代の帰結は孤独死 

 「普通に家庭を持つのがこれほど大変だとは知らなかった、普通が一番難しい」とよく聞く。恐らくこれは世代間ギャップなのではないかと思う。

 吉本隆明の著作を何冊か読んだ。Amazonによると8年前に買っていて、当時は難しすぎて読めなかったけど「これは大変なことを言っている」という直観があった。今なら読めるようになったので、読んでみると確かに凄く良かった。
 
 吉本隆明の用語で言うと「共同幻想」「対幻想」「個人幻想」となるのだが、分かりやすく「国家」「家庭」「個人」と言い換える。近代というのは極端な個人主義だと言える。ジョナサン・ハイトの本には「リベラル」つまり「向個人的な社会」というのは世界中でも異端であり、普通は「向社会的な社会」つまり個人が社会に奉仕する傾向の社会が圧倒的多数であるらしい。
 「家庭」が崩壊してきているのは国民が薄々感じていると思う。noteにも「趣味だけでどうやって生きるか」という記事が溢れている。「孤独」についての本も大量に出版されている。

 「忠孝」という価値観があった。昭和のお坊さんの本に、「学生に"忠"ってなんですか、と問われたので頭をポカンと殴ると「ようわかりました」と言って去っていった」というエピソードがあった。自明だったのだ。忠孝みたいな価値観が良いか悪いかは問わないが、他にも様々なエピソードを読んだ。
 ガンジーは小学生の頃、父親が病気で臥せていたので、学校が終わると一目散に帰って父親の介護をしていたらしい。それは喜びそのものだったという。これはガンジーが偉い!という話ではなく、世代の話だと思う。
 祖母と話をする機会がたまにあるのだが、祖母の頭は「家族」で埋まっている。「親の仕事を継いで成功するのが人間の一番の幸せ」と言っているのを聞いたことがある。先祖の墓の前で泣くこともある。僕からすると、かなり理解できない。

 「毒親」「親ガチャ」という言葉の善悪は置いておくが、このような言葉は、絶対に昭和には生まれなかっただろう。僕は昭和が良かったとも言わないし、今が進歩しているとも言わないが、「個人主義」からしか「毒親」という言葉は出てこない。というか恐らく「毒親」という現象も起きない気がする。「家庭に奉仕するのが人間の務め」という価値観を持っていれば、親の「しつけ」がトラウマになることはないんじゃないか。「俺の人生」という価値観を持っていれば「しつけ」がトラウマになる。母親は家庭に奉仕すること以外に生きがいがないような女性だったが、話を聞くと、教師から信じられないぐらい酷い体罰を受けていた。デカい物差しでぶん殴られたりしたらしい。ただ別に嘆いてもいなかった。
 「個人主義フィルター」で見ると、毒親というのは存在するが、「家庭主義フィルター」で見ると、存在しないんじゃないか。僕は個人主義の教育を受けたので毒親なんか最低だと思うが、「時代の産物」のような気もする。「毒親」という言葉が人類史で一度もなかったのがその証拠だと思う。

 で、結婚というのは多分うまくいかない。「個人主義者」の結婚は上手くいかない。一つ屋根の下で、お互いに同等の権力を持っている2人がうまくやっていけるとは到底思えない。王様が2人いるようなものだ。「家庭」というのは権力のバランスが不均衡だからこそ成り立っていたと思う。今の時代に結婚が成功するのは、忍耐心が物凄い人か、聖人みたいな人か、パートナー同士の相性が死ぬほどいいとかしかありえない。結婚はもう成り立たない。周りもみんな離婚している。

 個人主義というのは最低だと思う。「自己責任」という気味の悪い四字熟語も最近造られた言葉だが、誰も自己責任とは何なのかを語れない。イデオロギーだから。「自己責任」なんか成り立たないと熱弁しても、個人主義者は理解できない。イデオロギーだから。

 じゃあ村社会が良かったのかと言われると、それはそれで最低だと思う。ただもう僕らは孤独死する運命しか残っていない。子供を産んでも子供は介護をしてくれない。「恩をたくさん受けたから親の介護は頑張りたい」なんて聞いたことがない。どうやって老人ホームにぶち込むかしか考えていない。

 村や国家も終わって家庭も終わって、人間は孤独になってしまった。もう取返しのつかないことなので諦めるしかないと思う。「どうやって孤独に死ぬか」を考える

勉強したいのでお願いします