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オリーブの山 Mount Olive…ドイツ最後の皇帝とオスマン帝国34番目のスルタン…「パレスチナの土地を売るな」〜トーマス・クックシリーズ⑩

 海外にトーマス・クックという会社があります。
もし退屈したらタヒチ島、
雪に覆われたパミール高原を見たいと思うなら、
「ゲイ パリー」を訪問したいなら、
クックが船室を予約します。

クックが温かいお風呂と、ベッドでの朝食付きの最高のホテルの部屋を見つけてくれます。

 山の頂上、洞窟、とても暗い、すべての照明が消え、北、南、ヤシの木、松の木、砂漠、クックはそれらをすべて見せます。

 だからミスター・ツイスターは(トーマス・クックの手配で)世界一周することに決めました。

「ああ素敵!」
娘のスーザンが叫びました。

ロシアの S・マーシャクの「ミスター・ツイスター」Marshak S. Mister Twister.(抜粋)



ドイツ皇帝ードイツ旅行社ではなく、トーマス・クック社に依頼する

 1841年に創立したトーマス・クック旅行社の初のパッケージツアーは、禁酒集会へ向うというイギリス国内移動でした。

 それ以降、ベストセラーのツアーを色々販売しており、その代表はエジプトのナイル川クルーズの旅ですが、あとは世界一周ツアー、スイスのハイキングツアー、イタリアの芸術と聖堂を見て回るツアー。そして戦争見学ツアーです。

 1853年には勃発中のクリミア戦争(ロシア軍VS英仏も加担したオスマン帝国軍(エジプトとチュニジア含む))観光ツアーを出し、アメリカの南北戦争の戦場跡地を見て回るツアー、1899年には大英帝国と南アの間で真っ最中のボーア戦争を見物するツアーも売れています。

 流石にもう現在進行系の戦争見物ツアーを出す旅行会社はない(はず)ですが、今でもアメリカの旅行会社などでは、「南北戦争ツアー」「ベトナム戦争ツアー」など定番で、販売され続けています。
 
 1893年には、トーマス・クック社二代目社長ジョン・クックは初来日を果たし、横浜オフィスを設立します。いよいよ極東にも本格進出をしたのです。

 その5年後の1898年。
 満を持して、ドイツのカイザー(皇帝)の巡礼ツアーを手掛けることに!
 
今や王室は開かれ、多くの国で王室は「身近」な存在の感覚ですが、当時はまったくそうではなかった。皇帝なんぞはまさに「頂点」の王者で別世界の君主です。
 ですから、ジョン・クックも流石に緊張感を覚えました。
              
§
 
ところで、ドイツには旅行会社がなかったわけではありません。
 1863年、ドイツ初の旅行代理店カール・スタンゲン旅行代理店が創立されており、ドイツのトーマス・クックと呼ばれたカール・スタンゲンは1873 年にはエジプトへの旅行を、 1878 年には世界一周を販売しております。

オッサンの半尻をなぜ見せるのか?↑

 だけども、ヴィルヘルム2世は自身の聖地パレスチナ巡礼ツアーを敢行すると決めた時、自国の旅行社カール・スタンゲンにはベルリンからのヨーロッパ大陸の移動「だけ」を任せることに決め、自身のツアー全部を自国の旅行社にさせないという判断を下しました。

 中東における手配の強さといえば、クック社が圧倒的だったので、それも仕方がありません。

 ドイツ皇帝とクック社の間の契約ごとにはイギリス軍が介入しました。
 なぜイギリス軍かといいますと、以前エジプトでナイル川の蒸気船をクックが軍に貸して以降、クックとイギリス軍の間には交流が続いており、軍関係の旅の手配など請け負い続けていました。
 そこで今回ジョンが頼み、イギリス軍が入ったのです。

トーマス・クック、オスマン帝国スルタンに許可をもらう

 ただし、その前にジョンは急いでコンスタンティノープルへ向かいました。オスマン帝国のスルタンのアブドゥール・ハミド2世の承諾を得るためです。
              
 もともとハミド2世はトーマス・クック社に良い印象を抱いていました。なぜなら、このイギリスの旅行社が一体どれだけ大勢の観光客をパレスチナに連れて来て、恩恵をもたらしてくれているのを十分知っていたからです。

 何もなかったエルサレムの街に次々に旅行オフィスやホテル、レストラン、土産店が誕生し、交通も増え雇用も増え活気が溢れたのも、クック社のおかげだというのも、よく分かっていました。

 しかもです。トーマス・クック社以外に、ドイツ皇帝の巡礼ツアーを完璧に請け負える旅行社など他に存在しません。
 ですから、ジョンに
「トーマス・クック社がドイツ皇帝カイザー・ヴィルヘルム2世の聖地巡礼旅行サービスを提供してもいいでしょうか?」
と頭を下げられた時、ハミド2世は一切何も躊躇することなく、許可をしました。

オスマン帝国34番目のスルタン(皇帝)

オスマン帝国最後のスルタン、ハミド2世

 アブドゥール・ハミド2世は、約600年間続いたオスマン帝国の34番目のスルタンですが、先に書いておきます。

 ハミド2世は最終的にシオニストグループが資金提供したトルコ青年団にクーデターを起こされてしまい、廃位させられます。その上、イスラエル建国を題材にした小説や映画にほとんど登場しません。
 
 あまりにも気の毒ですが、優秀なスルタン(皇帝)だったと、多くの歴史家たちは評価しています。ただし即位した時代、タイミングがあまりにも不遇過ぎました。そして敵を作り過ぎた…。

約束の地ー「土地の登録をせよ」(1850年代)          

 1858年
 約40年前に遡ります。

 オスマン帝国は、土地所有者に所有権の登録を義務付けるオスマン土地法を導入しました。この法律の背後には税収を増やすことがありました。ロシアとの戦争でもう国庫がすっからかんだったからです。

 土地法導入には、実はもう1つ狙いがありました。それは、この地域でより強力な国家管理を行使することでした。

 しかし、小規模農家はオスマン帝国に登録料や税金を支払いたくなく、脱税をしたいがゆえに、土地所有の登録を怠りました。そもそもアラブ人の農民たちには土地を登録しておく重要性を理解しておらず、そのような概念もありませんでした。

 そこで、村の住民が共同所有する土地は単一の地主の名で登録され、地元のオスマン帝国の商人や役人が広大な土地をひとまとめに自分の名前で登録しました。こうすれば面倒くさい登録手続きと登録料支払いを代表者(地主)が行ってくれたからです。

 その結果、パレスチナの多くの土地は、そこに住んでいなかったかもしれない人々の法的所有物となり、その土地に数世代にわたって住んでいた地元住民たちさえも不在所有者の借地人となりました。それでも農民たちはのんびり構えていました。

約束の地ー「ちゃんと相手を見て売りなさい」(1860年代〜)

 1867年
 オスマン帝国はそれまで禁止にしていた、帝国の領土内の土地を外国人が購入することを許可しました。 

 国家が外国人にも土地を売ることを認める法律を制定するきっかけとなったのは、クリミア戦争後の債務と降伏金の返還という圧力が続き、いよいよ国のお金に困り、税収を増やす必要に迫られたからでした。

 広い土地を探していたユダヤ人の買い手は、裕福な所有者から土地を買うことを好み、一気に広面積を買い漁り始めました。 
  
 さすがに慌てたオスマン帝国政府は地主たちに
ちゃんと相手を見極めて売るように
と強く忠告をしましたが、全く効果は得られませんでした。

 パレスチナの土地が集中的にどんどん外国人に買われていくことに懸念を覚えたオスマン帝国政府は1871年、パレスチナの80%を国有地に定めました

 1880年代
 ロシアで迫害を受けたユダヤ人が一気にパレスチナに入って来て、続々と市民権を申請しました。しかしあまりにも多すぎた。

 1876年に即位したハミド2世は強い危機感を覚え、外国人のユダヤ人のパレスチナ移住に厳しい制限を設けました。
 
 本心を言えばロシアのユダヤ人そのもの受け入れを阻止できれば良いのですが、政治的事情でそうできませんでした。大英帝国です。

 大英帝国にはスエズ運河を手に入れるの際に、ロンドンのロスチャイルド家に巨額の資金を貸してもらっており、ユダヤのこの一族に頭が上がらないほどの大恩がありました。
 ですから、イギリス政府はオスマン帝国にロシアのユダヤ人を受け入れるように圧力をかけていたのです。

 その上、「パレスチナ移住の厳しい制限ルール」にはいくらでも抜け道がありました。
 例えば、オスマン帝国領だったチュニスのチュニジア人も、オスマン帝国政府によって国民とみなされていましたが、1881年にフランス領に変わりました。

 オスマン帝国領土からフランス領土に変わる過渡期の混乱に便乗し、ロシアにいたユダヤ人たちが
「チュニジアに住んでいたユダヤ系のオスマン帝国の民だ」
という偽の身分証明書を入手。そうしてチュニジア国民の身分でパレスチナに移住していくのに成功。

 それにです。帝国の政府はすでに腐敗しており、賄賂で簡単に懐柔できる帝国の役人たちが大勢いました。

 ですから、ユダヤ人の移民難民たちは地元役人への賄賂、偽造パスポート、偽造身分証明書、偽造権利証書を入手し、サクサクとパレスチナに入って来られました。
 しかも、ロスチャイルド家などは貧しい彼らに代わって、パレスチナの土地を購入を進め続けています。

 もっとも、移民のユダヤ人たちが最初に集落にしたのは、トウモロコシが栽培できない不毛の地や、野蛮なベドウィンが幾度も襲撃に現れる土地でした。
 こういった土地にはもともと人はほとんど住んでいなかったため、さほどアラブ人の反感を招かず、新しいユダヤ人の街を作りやすかった。

ユダヤ同士の衝突

 ユダヤ人の入植の波が止まらなくなると、新たな問題も浮上しました。元々先祖代々パレスチナに住んでいた地元のユダヤ人と、新しい移住者のユダヤ人がぶつかるようになったことです。

 元々のユダヤ人は質素な生活を受け入れている素朴な農民たちで、これまでアラブ人と揉め事を起こしたこともありません。ところが、新しく入って来たユダヤ人たちは、彼らに苛立ちを覚え、ユダヤ人同士でも摩擦が起き始めました。

 一言でユダヤ人といっても、このようにみんながシオニストだったわけではありませんし、出身地や言語、バックグラウンドが様々です。

 オスマン帝国のスルタンとして、ハミド2世はこういった彼らを対立させず刺激しないで守ることも必要であり、それでいてアラブ人、トルコ人への配慮も怠ってはなりません。
 パレスチナの支配には、非常に何とも微妙なバランスが必要でした。

日本とオスマン帝国の絆(1890年/明治22年)

 ずばり言うと、オスマン帝国はすでに崩壊しかかっていました。
 16世紀の最盛期に比べると、領土も大幅に減って借金まみれでぼろぼろ状態です。

 しかもです。繰り返しますが、1881年には領土のチュニジアをフランスに奪われ、1882年にはエジプトもイギリスに奪われています。(ただし名目上だけはエジプトはまだオスマン帝国の領土でした)
 オスマン帝国から独立したギリシャの利益までも英仏に取られています。

 ロシアは当然のこと、英仏ともうまくいなかったハミド2世はドイツ帝国のヴィルヘルム2世にすでに接近しており、そして日本とも親善を結ぼうとしていました。

 1890年の7月14日
 オスマン帝国の軍艦エルトゥールル号はコンスタンティノープルを出てスエズ運河を抜け、1890年6月7日横浜港に到着しました。
 途中、様々な国に立ち寄ったので、約一年もかかり到着したのですが、エルトゥールル号には親善使節団が乗船していました。

 オスマン帝国の使節団は明治天皇に謁見し、ハミド2世より託された最高勲章および贈り物の数々を献上し、天皇陛下からはハミド2世宛ての菊花勲章ネックレスが託され、そして宴も行なわれました。

 使節団は東京に三ヶ月滞在しました。
 その間、ずっと到れ尽くされたりの歓迎(おもてなしですね)を受けていました。

 9月になり
「そろそろ出航し帰国へ向う」

 それを聞いた日本側は全員驚きました。なぜなら日本では9月といえば台風の季節です。それに26年も使用しているという、その木造船エルトゥールル号はお世辞にも頑丈に見えなかった。
「せめて船を修理、補強してから出航されるべきです」

 ところが帰国が遅れるとまずいと、そちらの方を優先した親善使節団は日本人の助言に耳を傾けませんでした。

「三ヶ月も東京に滞在している間に、なぜ船の修繕をしなかったのだろうかね?どうしてもっと早くに日本を去ろうとしなかったんだろうか?」
 日本人たちは理解できませんでした。私も不思議です。

 横浜港を出た翌日、エルトゥールル号は和歌山県の串本町大島樫野崎沖を航海していましたが、台風に遭遇しました。

 あまりの猛烈な波浪と強風のために、船は甲羅岩礁に激突し、船体破損部から流入した海水が機関の爆発を引き起こしました。
 その結果、オスマン海軍少将以下587名が殉職、生存者わずかに69名という大海難事故となってしまいました。

 自業自得というには流石に気の毒過ぎますが、この遭難に際し、大島島民は自分たちの命がけで不眠不休で生存者の救助を行いました。さらに生存者の介護、また殉難者の遺体捜索や引き上げに奮闘。

 これが報道されるやいなや、なんと。日本全国からも多くの義金、物資がオスマン帝国の遭難将士のために寄せられました。

神戸の救護病院。白衣は明治天皇よりの寄贈らしいです

 69名の生存者は神戸で治療を受けた後、同年10月5日、「頑丈で優れた」2隻の日本海軍の軍艦により帰国の途につきました。

 コンスタンティノープルのアブドゥール・ハミド2世はこの知らせを聞いた時、心底驚き、明治天皇に御礼状と贈り物を送ったといいます。ここから本当の意味での、両国ー日本とオスマン帝国の絆が生まれました。

 するとです。
 ご存知の方も多いですが、この話には後日談があります。

1985年ートルコの日本への恩返し

毎日新聞

 イラン・イラク戦争が続いていた1985年3月17日、イラクのサダム・フセイン大統領が
「今から48時間後に、イランの上空を飛ぶ飛行機を無差別に攻撃する」
という声明を発表しました。

 ところがです。
 他の国々の飛行機はテヘランに住む自国の国民を助けるためにすぐに飛んできたのに、日航機は飛んで来ませんでした。

 日本政府は日航機のパイロットやCAの身の安全を心配し、なかなか迎えに飛ばせる決断ができなかったようですが、テヘランには215名の日本人がおり、途方に暮れました。

 余談ですが、この中に私の知り合いもおりました。お父さんが今で言うJICAの前身の団体にお勤めで、テヘランに日本の某技術をもたらすお仕事をされていました。
 ホメイニーにランチに呼ばれたこともあり、「優しいおじいさん」だったそうです。ドディとデートをしたことがある話は一生忘れません。ジェントルマンだったらしいです…。

 話を戻します。テヘランに取り残された215名の日本人が青ざめオロオロしていると、なんとハヤテのごとく、トルコ航空が飛んできて日本人全員を搭乗させました。
 
 これが驚きの話で、トルコ共和国のオザル大統領はテヘランに取り残された日本人救助のため、トルコ航空を出したのです。
 トルコ航空のパイロットとCAたちは命がけで、テヘランの日本人たちを助けました。

 では同じくテヘランのトルコ人たちは?
 なんと。彼らはトルコ航空を日本人に譲り、自分たちは陸路で祖国に帰りました。子どもやお年寄りもいたはずですし、大変だっただろうに…。

 このことを知った日本政府と日本のマスコミは戸惑い、首を傾げました。
「なぜトルコの航空機が来て日本人を助けてくれたの?なぜトルコ国民よりも日本国民の救助を優先してくれたの?一体どういうこと?」

 すると、駐日トルコ大使ウトカン氏はこう答えました。
「約90年前のエルトゥールル号の事故に際して、日本人がなさってくださった献身的な救助活動を、今もトルコの人たちは忘れていません。私も小学生の頃、歴史の教科書で学びました。

 トルコでは子どもたちでさえ、エルトゥールル号の事を知っています。今の日本人が知らないだけです。それで、テヘランで困っている日本人を助けようと、トルコ航空機が飛んだのです」

 例え、本当は何か政治的な目論見があったとしても、それでも大したものです。

(参照https://www.town.kushimoto.wakayama.jp/kanko/kizuna/turkey.htm)

 ちなみに一昔前、日本の外務省からはカイロの日本大使館に
「エジプト人にはあまり日本のビザを出さないでくださいね」
という通達がありました。入国後、行方をくらますエジプト人が当時は多かったからです。
 しかしトルコ人にはビザをとてもよく出していました。あの頃はそれが不思議でしたが、もしかしたらこういうことがあったためだったのかもしれません。

 蛇足ですが、このテヘランの件の約5ヶ月後、日航機の御巣鷹山事故が起きました。
 その翌日の8月13日羽田発大阪着のJL123便のチケットを、家族で購入していたので、私はまだ子どもでしたが、この事故の報道はよく覚えています。合掌。

約束の地ー「土地を売るのを止めなさい」(1890年代)

 1892年
 パレスチナにはフリーメイソンのロッジが増えていきました。中東とフリーメイソンは欠かせない関係なので、それはまた後で書くとして、

 メンバーにはアラブ人、トルコ人、アルメニア人もいましたが、ユダヤ人がもっとも多く、彼らは銀行経営者や市長や議員、医者、社長、弁護士、裁判官など成功者でした。

 パレスチナにおいて、横の繋がりを持つ地位の高いフリーメイソンのユダヤ人メンバーが増えていくことに、ハミド2世は頭を抱えます。そもそも彼は帝国内のフリーメイソンの活動を一切禁止にしていました。それなのに…。

 そこで、今度は「オスマン帝国国民がパレスチナの土地をユダヤ人に売却することを禁止する」ことを決定しました。今までは条件や制限がありましたが、今度は完全に禁止です。

 しかし、効果はありませんでした。これも色々「やり方」「抜け道」「裏ワザ」があったため、19 世紀後半から 20 世紀初頭にかけて、パレスチナ植民地ユダヤ協会、パレスチナ土地開発会社、ユダヤ国民基金などの組織を通じて、彼らの多くの土地購入が成功してしまいました。

 オスマン帝国の大宰相ジェバド・パシャがロスチャイルド家と裏で取引したのも要因でした。
 これが発覚すると、スルタンのアブドゥール・ハミド2世は炎のごとく激怒。すぐさま、この大宰相を解任し、死ぬまでダマスカス追放。さらに、2人の知事と一部の公務員を解任、厳しく処罰しました。

 だけどもこれは氷山の一角で、オスマン帝国の役人は賄賂と裏金とあまりにも結びついており、酷い現状でした。
 余談ですが、今日本でも「裏金」問題が話題になっていますが、報道を聞いていると、オスマン帝国の末期と似ています。くわばらくわばら。

 滅びかけているオスマン帝国には、大英帝国やロスチャイルド家を味方につけたユダヤ人の入植の波を、もはやどうにも止められないでいました。

 そんな時です。
 ヘルツルの使者が参上し、パレスチナの土地をなんとか売却させようと、こう申し出をしました。
「オスマン帝国が膨大に抱えている借金を、(バックのロスチャイルド家が?)全部立て替えてあげますよ。いつまでもお金の援助をしますよ」

 ハミド2世はしかしきっぱり却下しました。

いつかカリフ国家(スルタン支配国家)が崩壊すれば、ユダヤ人は代償を払わずにパレスチナを占領できるだろう。
 しかしだ。私が生きている間は、そんなことは起こらないだろう。聖地パレスチナをイスラムの国から切断させない。
 私の体にメスを入れさせるとしても、私が生きている間は私の体を解剖させない」
(*領土=自分の身体に例えた模様)

ドイツ帝国ヴィルヘルム2世が頼みの綱(1898年)

 恐らく、ハミド2世はオスマン帝国が滅びるのを分かっていた。ただ、なんとか少しでも存続を長らえせようともがいていたのだと思います。
 
 繰り返しますが、そのためドイツ帝国に接近しており、この度、ヴィルヘルム2世の聖地巡礼を完璧なものにし、ドイツ帝国との連携をもっと強めようと考えました。

 ですから、その巡礼ツアーを安心して任せられるのは、信頼と実績のあるトーマス・クック社しかありえません。 
 ちなみにヴィルヘルム2世もハミド2世もイギリス嫌いでしたが、政治と旅行会社を分けて考えていたのだと思います。

ドイツ皇帝来訪前に、聖地の街を見栄え良くする

 ドイツ皇帝の聖地巡礼ツアーが決定した後、ハミド2世がまずやったことはトーマス・クック旅行社を「オスマン帝国スルタン承認のドイツ皇帝・聖地巡礼ツアーの手配会社」として公式に任命すること。

 そして次に行ったのは急いで、それまでの無能なエルサレム総督を異動させ、新たに優秀な人材に変えることでした。エルサレムはオスマン帝国領土の辺境の地ですから、大した人物ではない総督をいい加減に置いているだけだったのです。

 その後は街を徹底的に清掃させました。オリンピックや万博開催が決まった都市が慌ててうわべだけを整えるのと同じことをやったわけです。

 何世紀にもわたって放置されていた市の下水道システムは完全に改修され、神殿の丘が改修され、岩のドームモスクに小さな照明穴が作られました。

 さらにです。
 皇帝の凱旋行列の妨げとなる可能性のあるヤッファ通りのすべてのものはすぐに取り壊されました。
 皇帝が通る他の道も舗装され、オスマン帝国の威厳のある雰囲気を知らしめたいと、物乞い、追いはぎ、吠える犬はよその村に追放されました。

 またオスマン帝国政府は当初、皇帝の凱旋行列に立派な開口部を作るために、歴史的な市壁の一部を取り壊すことも計画しました。しかしそれを知ったヴィルヘルム2世は驚きました。

「この野蛮な行為が行われないことを望む、そこまでするな、壁を破壊するな」
「そうは言っても、あんた、大勢をぞろぞろ引き連れて大名行列するんだろ?通れないじゃん」
 エルサレムの新総督はぶつぶつ言い、苦肉の策で代わりにヤッファ門のすぐ隣にある市の堀の一部を埋め、旧市街に通じる新しい道路を作りました。その道路は現在も稼働しています。

 こうしてドイツ皇帝を迎える準備が完了しました。
 1898年10月12日、ヴィルヘルム2世はベルリンを出発。

 かたや、シオニストのティルヴァル(テオドール)ヘルツルはある計画のために、ウィーンを出てヴィルヘルム2世を追いかけました。

                        つづく

 

ヴィルヘルム2世の子孫も白馬で、エルサレム「入城」しました。                       
ユダヤ教では「 一羽の鳩がノアの箱舟を出て、オリーブの木をくわえて戻ってきた」、キリスト教でもイスラム教でもオリーブは何度も登場し、言及されています。

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