蜜の溢れる地…イスラエル建国の父とドイツ皇帝の初エルサレム入城〜トーマス・クックシリーズ⑪
2016年、トーマス・クック初ツアー175周年を記念し、この節目を祝うため、レスター鉄道駅員は火曜日午前10時以降に乗車する最初の175人の乗客にラフバラー行きの切符を5ペンス(1シリング)で販売しました。
そう、この175年前の1841年に、家具職人でバプテスト派の宣教師のクックは
「人々に禁酒を促す禁酒集会に参加してもらいたい」
と考え、レスターからラフバラーまでの12マイルを1シリングで500人を乗せる列車を手配しました。
2016年はちょうどその175年目ということで、175人だけ当時の価格でOKだということで販売。(エイプリルフールではありません)
この時、レスターの市長もトーマス・クック像に献花し、同市を訪れる観光客向けに新たなウォーキングトライアルを開始しました。
なかなかここまでずっと、多くの人々に愛される企業の創業者もいませんから、そういう意味でもトーマス・クック、凄いです。
(*なお、トーマス・クック社は様々な企業に買収を繰り返されながら、名前は残っていたので、それで175周年記念をしたのだと思われます)
1898年10月12日ベルリンを出発
ヴィルヘルム2世皇帝は
「巡礼者としてエルサレムに入る」
と世界に向けて公式発表していましたが、それは半分本当で半分は違いました。
というのは本来の一番の目的はエルサレム旧市街にドイツの救世主教会を設立することと、
ドイツが中東で鉄道を敷く計画の取り付け(言葉をかえせば、ドイツ帝国における中東・アジアへの侵攻)があったからです。
1898年10月12日
ヴィルヘルム2世は6頭の馬を連れてベルリンを出発し、陸路でヴェネチア経由でコンスタンティノープルに向かいました。
オスマン帝国のアイヤレット(領土)のレバント地方へ旅をするという報告を、スルタンのハミド2世にするためです。
1869年、フランスのナポレオン三世の妻、ウジェニー・ド・モンティジョ皇后もエジプトのスエズ運河開通式に出席する前に、先にコンスタンティノープルのスルタンへ挨拶に寄っています。
どこかの領土を訪問する前には、そこの宗主国の君主に顔を見せておくものだったのでしょう。
コンスタンティノープルでドイツ皇帝に出逢う
ヴィルヘルム2世がコンスタンティノープルに立ち寄った時、ウィーンから皇帝を追いかけて来た人物がいます。この二年前に「ユダヤ建国」を書き、その後第一回シオニスト会議も開いたティヴァダル(テオドール)・ヘルツルです。
余談ですが、彼は1889年にウィーン出身のジュリーという女性と結婚しています。ジュリーの実家が裕福だったため、その援助または彼女の莫大な持参金でシオニズム運動に没頭することができたといいますが、夫婦仲は最悪だったという説もあります。
その理由は
「ジュリーが甘やかされて育ったワガママな女性で、短気で自分勝手の癇癪持ちだったからだ」
または
「ヘルツルがシオニズム運動に没頭しすぎて、家庭を二の次にしたからだ」
「毎日、朝から晩まで大勢のシオニズム運動の仲間がヘルツル邸に入り浸ったせいで、ジュリーがストレスでおかしくなった」
とにかく、あまり夫婦仲が良くはなかったのはきっと間違いないようで、また、ジュリーはユダヤ教徒ではなかったという説もあります。
その根拠が二人はユダヤ教に乗っ取った挙式を上げていないのではないか?という疑惑があるのと、ジュリーの母方の家系を遡ると、どうもユダヤ教徒じゃない先祖がいたらしいからです。
ユダヤ教徒は「母系」が重要です。ユダヤ教徒の母親から生まれないと、その子はユダヤ人であってもユダヤ教徒ではありません。ちなみにムスリムは「父系」です。
同じ父を持ちますが、ムスリムの先祖は「正妻」で、ユダヤの先祖は「妾」から誕生したという違いがあるせいなのかもしれません。
話を1898年のコンスタンティノープルに戻します。
この時、ヘルツルとドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の面会を実現させた裏に、二人の人物の存在がありました。
まず一人目は、イギリス人ウィリアム・ヘクラーという牧師です。
ヘクラーはウィーンのイギリス大使館の専属の牧師をする傍ら、バーデン大公の子どもの家庭教師もしていました。
ヘクラーは何かがきっかけで、たまたまヘルツルの書いた「ユダヤ国家」を読みます。いたく感銘を受けました。
「本人に逢ってみたい」
と人を介して、同じウィーンの街に住むヘルツルに面会しました。するとますますシオニストの思想に魅了され、彼のファンになりました。
そして、ヘルツルが地位のある人々のユダヤ国家樹立の庇護や支持を取り付けていこうとしているのを知り、
「私はバーデン大公と親しい間柄です。バーデン大公は皇帝ヴィルヘルム2世の叔父にあたる人物です。なので御紹介しましょう」
と胸を叩きました。
その後、早速ヘルツルはヘクラーの紹介で、マイナウにあるバーデン大公国をへ向かいました。
余談ですが、私がドイツで一番好きなのは、リンダオと「花の島」で有名なマイナウ、バーデンバーデンです。文化もある素晴らしい美しいエリアで、優雅で上品な人々も多かったですから。
さて、遠方はるばるやって来たヘルツルをバーデン大公は温かく迎え入れ、そしてじっくり話を聞いてやります。するといたく感心し、心を揺さぶられシオニズムの思想を気に入りました。
こういうエピソードを聞いていくと、ヘルツルという人物は人を惹きつける話術や才能、カリスマを持っていたのだと思います。
それにです。ヘルツルは昔から宇宙、植物、哲学、医学などあらゆるジャンルの書物を読んでおり、「雑食」読書家でした。話題が豊富だったといいます。
バーデン大公は甥のヴィルヘルム2世に会えるように取り計らう約束をしましたが、ベルリンではなかなかその実現が難しいため
「皇帝は近々、コンスタンティノープルへ行くことになっているから、そこであなたに会う時間をもうけるようにさせておく」
と約束をしてくれました。
コンスタンティノープルでの初めての会談
ところで、ヘルツルが「ユダヤ国家」を書き上げる以前に、既にユダヤ人連盟がパリで生まれていました。その背景には、世界各地で起きていたユダヤ人が巻き込まれる不条理な事件が起きていたからです。
例えば、1840年起きた「ダマスカス事件」です。
当時のシリアはエジプトの領土で、ムハンマド・アリが統治者でしたが、
ダマスカスで、ユダヤ人が過越祭を行うのに「血」を必要とし、アラブ人を殺したに違いないという疑いをかけられる事件が起こりました。
結論を言えばそれは嘘っぱちだったのですが、世界を巻き込む大事件に発展し、各国のキリスト教国も口を挟んできました。
1858年にはボローニャでモラターラ事件が勃発しました。ユダヤ人の少年が親から引き離され、無理やりカトリックに改宗された事件です。
数年前にはヘルツルがユダヤ国家樹立を考えるきっかけになった、パリでユダヤ系の軍人がドイツのスパイだと疑いをかけられた事件もありました。
ちなみに、これはヨーロッパ各国の歴史の教科書には載っている事件で、ユダヤ系ポーランド人のロマン・ポランスキー監督が映画にしています。
とにかく、こういったことがあまりにも起きていたため、世界に散らばるユダヤ人の人権を守るという趣旨のユダヤ連盟が発足し、活動を行っていました。
しばらくするとユダヤ同盟は「教育は必要」とフランス語による学校も設立していきました。なぜフランス語なのか、といえは、元々パリで始まった連盟だからです。
これらの学校にはユダヤ人でなくとも入学は認められ、とりわけ(同じフランス語圏の)北アフリカと中東に多く開校し、その流れでパレスチナにも続々とユダヤ連盟の学校が誕生しました。
1870年には、エドモンド・ロスチャイルドの資金援助で、オスマン帝国の当局からパレスチナのエルサレム郊外に大きな土地を借り上げました。そしてそこにミクヴァ・イスラエルという農業訓練学校も創立。
しかし興味深いことに、ユダヤ連盟はヘルツルの始めたシオニズム運動を敵対視しました。なぜなら同盟はフランスとユダヤの統合を目指し、かたやヘルツルのシオニズムはユダヤ独自の国家を目指すものだったからです。
このように、決してユダヤ人の中でもシオニズムに賛同しない人々や団体が存在しており、なおさらヘルツルはユダヤ人もしくは非ユダヤ人両方の有力者たちからの支持を欲していました。
さて、ヴィルヘルム2世ですが、端からシオニズムには興味がありません。だから、叔父のバーデン大公に言われたので、渋々ヘルツルの面会を受け入れただけです。よって案の定、ヘルツルとの会談は全くもって無駄に終わりました。
余談ですが、バーデン大公は同じ一族のロシアのニコライ二世にも
「ヘルツルに会ってやってほしい」
と要求しています。
しかし、ニコライ二世はシオニズムに全く共感も理解もなかったので、きっぱり断ります。シオニズムとは一切無関係ですが、ニコライ二世が処刑されるのはこの20年後…。
オスマン帝国アイヤレット(領土)の聖地へ
この後、ヴィルヘルム2世はコンスタンティノープルを発つと、自身の船の蒸気船ホーエンツォレルン号(Yacht Hohenzollern)乗り、地中海を渡りました。ちなみに、船の名前のホーエンツォレルンとは皇帝の苗字です。
ハイファの港に到着すると、トーマス・クック社のスタッフたちが待ち構えていました。それは圧巻の光景でした。なぜなら、
ジョン・クックを先頭に500 頭のラバと、1,300頭の馬、100もの馬車、230のテントを用意するスタッフ部隊や軍の護衛、さらに数百のスーツケースを移動させるスタッフ集団がずらり勢揃いしているのです。
写真が見当たらないのが残念です。
ここで、旅行会社がバトンタッチしました。
一応ここまでの手配はドイツの旅行社のカール・スタンゲンでしたが、この先からはトーマス・クック社の出番です。
ただしカール・スタンゲンも共にエルサレムまで向うことになっています。
なぜなら、ヴィルヘルム2世がエルサレムに建てたドイツ教会で行なわれることになっている大規模なミサの手配も、スタンゲンが請け負っていたからです。確かにこれはイギリスのトーマス・クック社では難しい…。
ヴィルヘルム2世は意気込んで初のレヴァントの地を踏み、意気揚々と大行列の旅を開始しました。しかしすぐに不機嫌になっていきました。
「なんて暑いんだ。それにこの埃っぽさはどうにかならないのか」
この地域の10月はまだ暑いです。恐らくジョン・クックも「10月はまだまだ猛暑だ」ということは事前に言っていたはず…。
それでも、現地の困難な地形や困難な物流に精通していたクック社の同行がなければ、もっと大変だったことでしょう。
イスラエル建国の父、ドイツ皇帝にパレスチナで面会する
1898年10 月 28 日金曜日
非常に晴れた日でした。 大勢のジャーナリストや写真家が密着取材をするため、ドイツ皇帝のキャラバン隊に合流しました。
一方、ヘルツルはシオニズムの仲間を連れてその日の朝早くに、ミクヴァ・イスラエルに向かいました。
そのミクヴァ・イスラエルに到着すると、その農業訓練学校の正門の前でヘルツルはヴィルヘルム2世を待ち構えました。
繰り返すと、ユダヤ連盟はこの時はまだシオニズム運動に同意していません。だけども、この学校の建設にお金を出したエドモンド・ロスチャイルドはヘルツルの後ろ盾のような存在でした。
もっとも、かくいうエドモンド・ロスチャイルドは最初からシオニズムを肯定していたわけではありません。むしろ最初は否定しています。なぜならユダヤ国家樹立など不可能だと考えたからです。
それはさておき、ここでのヴィルヘルム2世との会談を実現させた裏には、バーデン大公の手引きがあったのではないかと思います。
しばらくすると、予定通りヴィルヘルム2世の大群が現れ、その農業学校にて、二度目の面談を果たしました。
とは言え非常に短い時間だけで、しかもまたもやヴィルヘルム2世がシオニズムに何も興味を持っていないことを再度思い知らされただけでした。
さらにヘルツルがドイツ皇にお願いをしていた、
「パレスチナをユダヤにくれるように、ハミド2世に口添えをしておいてほしい」の願いも全くなされていないことも分かりました。
正確には、ヴィルヘルム2世は確かにヘルツルの要求を伝えていたのですが、それを聞かされてもハミド2世は興味を示さず、ヴィルヘルム2世も特に説得を試みていないだけでした。
しかしそんなことよりも重要なのは、皇帝に同行していた多くの記者が
「シオニストが提唱するイスラエル建国のパレスチナで、ドイツ皇帝とヘルツルが会った」
というのを見届けた事実です。
これは明らかにヘルツルの魂胆でした。案の定、世界は
「ドイツ皇帝がシオニズムを肯定した」
「ヘルツルを世界シオニスト運動の指導者として、欧州主要国のドイツが公に認めた」
と誤解をしました。
繰り返しますが、これまでどこの国の君主も慎重になっており誰一人、まだヘルツルに正式に会っていません。
だけどここで、大勢の目撃者の前で、ヴィルヘルム2世はシオニストのヘルツルに面会し、二人が揃った写真は撮影されました。そうです、これがここでの、ヘルツルの最大の目的でした。
実際、このことはその後のシオニズム運動の飛躍に繋がります。
「あのドイツ皇帝も会った男なのだから」
ということで「ヘルツルに自分も会ってもいい」という有力者が増えていったのです。
ただしヴィルヘルム2世との写真撮影ですが、逆光だったのか、位置が悪く、実際に記録されたのはその一部だけで、明らかに二人が揃ったという、明らかな写真は撮られませんでした。
そのため、シオニスト側が作成したのでしょうか?
後で歴史的および世界的なプレゼンテーションのために画像のフォトモンタージュ合成が作成され、ますますヴィルヘルム2世がシオニズムを認めたという誤解が広まりました。
イスラエル建国の父、エルサレムの地を踏む
1898年10月28 日の金曜午後遅く
その後、ヘルツルは仲間と列車でエルサレム駅に到着しました。
彼らがエルサレムにやってきたのは、まずユダヤ国家樹立の「下見」。そして実はバーデン大公の手引で、三回目になりますが、再度ヴィルヘルム2世とこの街でも会えることになっていたからです。
だけどエルサレム駅に到着した時、ヘルツルは気分が優れませんでした。急激な気候の変化や、忙しい旅スケジュール、そして酷く揺れる路線だったとのことですので、激しい列車酔いをしていたのかもしれません。
それにもともと身体が弱く、実のところずっと心臓を悪くしていました。よって本来ならばタイトなスケジュールでこんなパレスチナの地まで旅をするべきではありませんでした。
「馬車に乗らんか?」
駅を出ると、そこに待機していた馬車従者が次々と勧誘してきました。
しかしヘルツルは首を横に振り、相変わらず具合が悪かったにもかかわらず、仲間たちと共に駅から街まで歩きました。
太陽はギラギラ照り暑いです。しかもやはり埃っぽいですし、何だか匂いもよくありません。
だから、市内に入って早く宿を決めて一休みしたいと、ただその一心でした。ところがです。
「はっ?このタイミングで空き室があるホテルなんかあるわけないじゃないか。明日、ドイツ皇帝一行が入城するんだぞ。すでに各国の記者や関係者らの予約で、街中のホテルの部屋は埋まっている」
「…」
すでに何年も記者をし、各国行っている割には甘かったと思いますが、それだけ気持ちがドイツ皇帝に再び会うことだけに集中していたからなのかもしれません。ホテルの部屋を先に押さえておくことをうっかりしていたのでしょう。
ヘルツルたちはダメ元で片っ端から宿を当たって行きました。もうどこでもいい。
予算オーバーの高いホテルても逆におんぼろ宿でも構いません。しかしどこも首を横に振ります。ない、ない、部屋が一切ありません。
ますます具合が悪くなり弱り果てていると、ヘルツルらが宿を求めて彷徨いうろたえている様子を見ていた現地の人間が同情し、不憫に思ったのでしょうか。
その男はマミーラ通りにある知り合いの民家に声をかけ、一晩寝床を提供してやりました。ヘルツルはほっとし、感謝を述べます。
危うく野宿になりそうだったところ、ちゃんとしたベッドに横になれました。しかし、どうしたことでしょう。全然寝付けません。それもそのはずです。神経が休まっていないからです。
ドイツ皇帝、聖地エルサレム入城
10月29日土曜日午前
いよいよ、ドイツ皇帝の、念願のエルサレム入城です。
この時の光景はもはや「伝説」になっています。なぜならば、
十字軍の旗を模した旗を掲げたドイツ兵に囲まれた、ヴィルヘルム二世はなんと!白馬に跨り、白いマントを大げさにはためかせ、その下にきらめく甲冑と軍服を着て、聖都に入城です。
「おいおい少々、やり過ぎじゃないか?」
同行していた記者たちはひそひそ囁きましたが、当の本人は顔を上げ得意顔です。
エルサレムの街の入口手前まで来ると、自分の大キャラバンに「止まれ」の合図をしました。
「ぬ?」
打ち合わせにはない出来事でした。
皇帝は無言で白馬から降りました。
「なんだ?」
誰もがきょとんとしていると、エルサレムの街を目の前にした皇帝は感極まったあまり、突然ひざまずき、埃っぽい道にキスをして祈り出しました。
「…」
見物人の村人たちは驚き、呆れて言葉を失いました。皇帝よ、酔いしれ過ぎです。
エルサレムの街は21発以上の大砲でドイツ皇帝を歓迎し、オスマン・トルコ軍楽隊がドイツ国歌を「熱狂的な演奏」で披露。すでに障害物は取り壊され、凱旋門が建てられています。
ヴィルヘルム2世の一行はそのままヤッファ街道に沿って、彼を歓迎するために設置された2つの凱旋門をパレードをしました。
相変わらず「十字軍になりきっている」様子で、始終すました顔です。ただし、スパイク付きヘルメットがヤッファ門のドアを通過できなかった時は苛立ちを見せました。
そんなドイツ皇帝一行の入城行進の様子を、ヘルツルと仲間たちはヤッファ通りにある、特別に入れてもらったホテルの二階廊下の窓から無言で眺めました。
この後、3度目となるドイツ皇帝との面談です。
「次こそ説得してみせる」
つづく
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