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「いる」の確保

お昼を食べながら、読んでいた本の一文に目がとまった。自分ではあまり手に取らない類の本なのだけれど、こういう一文に出会えたりもするので乱読もいいものである。

年齢が上がるにつれて、一人で眠れるようになるのは、時間を経る中で、その誰かが心の中に内在化されたからです。
 他者は安全である。この感覚が心の中にあるとき、僕らは安心して眠ることができます。逆にいうと、不安なときに眠れなくなるのは、心の中の他者が危険になってしまうからです。

「なんでも見つかる夜に、こころだけが見つからない」より

「いる」をもたらしてくれる人たちの存在。それがないと、人は安心して眠れないらしい。

ううむ。ちょっと唸ってしまった。これまで不眠のようなものに悩まされたことが一度だけあるからだ。

「家」「家族」「居場所」なんかは常に自分の中で解けない類のテーマなんだけれど、「ね、眠れない…」という状態に一定期間陥ったのはあれが初めてだった。

本来なら立っていられないほど疲れ切っているはずなのに、目が冴えてさっぱり眠くならなかった。あれは恐怖でしかなかった。眠れない、というのはこういう状態を指すんだ。初めて自分の身に降りかかった、「睡眠」をコントロールできない状態。眠ろう、と焦るほど眠れない。1ヶ月以上続いたのではなかったか。そして身体的にも精神的にもギリギリの状態だったはずだ。

そして、2週間目くらいに高熱を出し、文字通りバタンと音を立てて倒れた。

これは行けない、と家庭医に足を運び、確か5種類くらいの紹介状を受け取った。脳神経医、外科医、心理カウンセラー、後はもう忘れてしまった。

結局、カウンセリングには行きそびれてしまったが、その代わりになぜか馬鹿みたいに毎日ジョギングだけは欠かさなくなった。どう考えても正気の沙汰ではない。不眠とジョギング、そして毎日のnote。

自分にとって、その時は書くことがセラピーのようになっていたのだろう。

カウンセリングを受けることなく、降りかかってきた状況に対して、自分で腑の落ちるような決定を下し行動したことで不眠は回避することができた。それでも、根本的な問題が解決したようには全く感じていない。

でも、解決することばかりが正解ではないのかもしれない。その一文を何度も繰り返し読みながら、「いる」をもたらしてくれる人たちについて考えていた。




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