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モスクワにリベンジできなくなった

2001年にインターンをしながら半年住んでいたモスクワで感じたそこはかとない違和感。あの時の印象は、残念ながら正しかったようだ。

「ロシアという国も文化もロシア人も大好きだが、どう頑張ってもここには住めない」という苦渋の決断を下して、後ろ髪を引かれつつベルリンに戻ったこと。ベルリンのシューネフェルト空港に着いた途端に、緊張が解けたのか立ち上がる気力すらなかったこと。当時はモスクワでの生活において、言われようのない理不尽さが日常を蝕んでくる感じが耐えられなかったのだ。

ベルリンで偶然出会って知り合ったモスクワ出身のロシア人。できるだけ一緒にいたくて面倒なビザの手続きにも耐えて、何度もロシアに足を運んだ。1995年に知り合って2001年にインターンを終えるまでの間、一体何度モスクワに足を運んだことだろう。今から思えば本当にいい時代だった。

だから、近年、SNSを通じてロシアに留学したり、ロシアで生活している日本人のツイートを見るたびに「ずいぶんと時代は変わったんだなぁ。モスクワも明るく綺麗な街になったな。ほんと羨ましい。」なんてことを思っていた。90年代の混沌としたディストピア的なロシアからすっかり生まれ変わった新生ロシア、そう理解していたのだ。そして、それも一面では間違いではなかったのだと思う。

90年代のモスクワ。線路沿いにあった古いガレージの写真を撮っているだけで警官にしょっぴかれたり、赤の広場で呼び止められて逃げたら追いかけられたり。「日本人だ」と言った途端に家賃が目の前で4倍に跳ね上がったり。それはもう理不尽なことだらけの毎日だった。決定的だったのは近い友人が撃たれたこと。彼はある雑誌の編集長だった。

何が起こるかわからない。ロシア人ではなく外国人として住むには何かあった時にハードルが高すぎる。当時まだ20代だった私はそう考えた。ロシア人と付き合っている間は何とかなっても、そうでなくなったらひとりで生きていけるのか、というのが判断する上で決定的な重要事項だった。

ここでひとりでやっていける自信がない。

ベルリンには何も考えずにフラッと来たくせに、らしくない、と自分でも呆れたが勘のようなものが「無理をして何とか留まる」という選択肢を選ばさなかった。たまたまインターン先の病院に来られた大使館員の方に、産休で空きのでるポストの話を聞きに行ったのだが、その際に頂いた助言も大きかった。ロシア語能力も然り、サバイバル能力も然り。全然足りない。悔しいけれど現実を見なくてはならない。

だから、当時知り合った日本人でまだモスクワに住んでいる人は尊敬に値するし、本当にすごいとしか言いようがない。自分ができなかったことを成し遂げてくれていると勝手に思っているので、応援したいし彼らには幸せであって欲しいのだ。

それなのに、なんだこれは。どういうことなんだ。

そのうち、モスクワを再訪しようと思っていた私の夢と言ったら大袈裟だし、どちらかといえばリベンジのようなものをどうしてくれるんだ。

今はそんな沸々と湧き起こる怒りや悲しみのようなものを持て余している。







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