手段が目的だった

CETを時々振り返る。復活させたいと相談をされたからなのだけど、どうも違和感しか無い。そもそもの持ちかけられた復活の目的に心が動かないからだと思う。

CET、ものすごく簡略化した説明が「手段が目的のイベント」という言葉に行き着いたのが最近。

「町おこしイベント」なんて表現されるのだけど、その現場に居た人達が全員「この街をどうしたい」とか、考えてたわけじゃ無い。

「空いてる空間があるなら、そこを自由に使いたい」「新しい表現方法を試したい」「やってみたい事があったんだ」「ずっと考えてた事があるから、それをやってみる」

もちろん、その中に「この街をこうしたい」って街の人が居たから成立した部分は大きいのだけど、全員がそれだけだったら、CETじゃ無いイベントが生まれていただろうと思う。

運営も、アーティストも、デザイナーも、街の人も、それぞれがそれぞれの責任でそれぞれやりたい事を同時に行ったというのが、あのイベントなんじゃないかな。

資金は無いけど、無ければいけないとも思ってなかったと思う。
だから、各自が財布を覗きつつ、本業の付合いの中から協賛を探ってきたり、物品提供を持ちかけたりで、それぞれの実績の延長であり、その集大成として「イベント」が存在できたのだと思う。

だから、あれを意図的にやろうとしても難しい。出来ないとは言わないけど、あれだけの意思や気持ちが同調する人達が集まる場を持つ事が、非常に困難なのだと思う。
誰かが何かの為に人を集めた訳でも無い。お金ありきでも無いから。

もし再現するなら、ちょっと目的や手法が異なるだろうと思う。でもそれなら、まったく新しい名前で開催した方が良い。たぶん、楽だしスムーズ。
純粋にコマーシャルギャラリーを運営する様に、地に足をつけた仕掛けとして挑むなら、すべての評価や名誉を手に出来るのだから、そちらの方が実績になるだろう。

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