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【短歌八首】車椅子の風景その4

有人のレジで感じぬ障害を突き付けてくるセルフレジかな

自販機も顔認証の時代となチェアウォーカーも写りますか?

クリックで食事も本も届く世のテクノロジーで縮まる格差

セルフ化の波は健常者だけ乗せテクノロジーで広がる格差

見えづらい手も届かない使えないATMに爆弾仕込め

セルフではないガススタを探しては町を追われてさまよえば冬

車椅子用の駐車スペースに誰がどけるの三角コーン

「お手伝い必要ですか?」と駅員は私を飛び越え連れに尋ねる
 



今日12月9日は、障害者週間と人権週間が重なる期間の最終日です(障害者週間は12月3日~9日、人権週間は12月4日~10日)。
と言うわけで、「車椅子の風景その4」です。今回は、テクノロジーの”発達”によるセルフ化・無人化の問題を中心に短歌を詠みました。
ちなみに、去年のこの時期(障害者週間と人権週間が重なる期間)には、「reasonable accommodation」と題して、合理的配慮に関する短歌を掲載しました。

以下、短歌の解説というか愚痴というか、社会への問題提起です。

◆第一首
私は車椅子ユーザーで、なおかつ手にも障害があり、セルフレジを使えません。
よく言われることですが、障害というのは障害者の身体の内側にあるというよりも、社会のあり方によって生じることがほとんどです。
私の場合、有人レジでは健常客との間に格差はほとんどありません (有人レジでも健常者との格差を感じる障害者はいると思います。あくまで、私の場合は、です)。
ですが、セルフレジしかない店では途端に格差が生じ、私には特別な計らいが必要になります(店員さんが代りにレジをやってくれます)。
有人レジからセルフレジへの移行によって、そこに障害が発生するわけです。
たいていの店員さんはとても親切でありがたいのですが、しじゅう他人の善意や優しさに頼らないと生活できないという現実を、そのつど思い知らされる日々は非常にしんどいですし、そんな人生は煩わしくもあります。
いつもいつも他人の善意や優しさを当てにしなくてもやっていける快適さと自尊の保障、そのための文明であり便利さであり、技術革新であるはず……というか、そうであるべきです。ですが、セルフレジばかりになることによって、自分が“できない人間”であると突きつけられることが増えました。

◆第二首
以前、自販機でも顔認証で支払いまでできるシステムが導入されるという記事を読みました。

気になるのは、顔認証用の端末が立位者に合わせた高さにしか設置されていないのでは? ということです。
もし車椅子ユーザーに合わせた高さに端末がないとなると、この顔認証システムの便利さを車椅子ユーザーは享受できません。
のみならず、もし従来の購入方法が不可で顔認証による購入のみが可能だとすると、車椅子ユーザーは買い物自体ができなくなります。
私の懸念が当たっているとすると、設計段階ですでに車椅子ユーザー(だけではないが)の存在は排除されているわけです。

◆第三首、第四首
私自身、テクノロジーの力に大変助けられています。中でも、電動車椅子で移動の自由(完全な自由ではないにしても)を手に入れたことは大きいです。
そして、ネット通販のありがたさ!
ネット通販は、確実に健常者との格差を縮めてくれました。遠くの店まで出向かなくていいし、重い荷物を持って帰れないからと諦める必要もありません。
実店舗では、手が届かない商品は店員さんに頼んで取ってもらいます。ただ、買うと決めてる商品ならいいのですが、手に取ってみて買うかどうか決めたい場合は、店員さんに頼むのもちょっと心苦しいのです。その点、ネット通販なら気兼ねせず好きなだけ、ああでもないこうでもないと比較などして悩むことができます。
(でも、実店舗での買い物は、買い物それ自体に楽しみがあるので、ネット通販オンリーではないですが)

このように、テクノロジーは格差を埋めるためにこそ、あってほしいのです。
しかし、昨今のテクノロジーの“進歩”によるセルフ化、無人化の波は、むしろ従来の格差を広げる方向へ進んでいます。
この社会はもともとマジョリティ向けに設計されていますが、新しいテクノロジーによる社会変革も、マジョリティしか想定していないケースが多いのです。
第一首、第二首、第五首、第六首で詠んだケースもそうですが、マジョリティのさらなる便利さを追求する影で、いままで格差なくできていたことも、できなくさせられる人間がいるのです。

◆第五首
ATMだけでなく、券売機、コンビニのマルチ端末、本屋の検索機……とにかく、でんと立っているタイプの端末機は、ことごとく画面が見づらいし、タッチパネルに手が届かないことが多いです。

◆第六首、第七首
私自身は車を運転しませんが、運転する車椅子ユーザーの困り事としてよく聞くのが、セルフのガソリンスタンドが増えていることと、スーパーなどの車椅子マーク駐車スペースに三角コーンが置いてある問題です。
自分で給油できない人は、セルフではないGSを求めて遠くまで行くと聞きます。セルフGSでも、店によっては頼めば店員さんが給油してくれるのでしょうが、そういう対応は店によってまちまちでしょう。セルフGSの店員は給油要員ではなく、客が給油することを許可する要員ですから、頼んでも断られることはあるだろうと思います。
車椅子マークの駐車スペースに三角コーンが置いてある問題は、ずいぶん前からずっと指摘されていますが、なかなか解消されませんね。車椅子ユーザーが同乗者なしで車を運転している場合、邪魔な三角コーンをどけるには

車から車椅子を降ろす

運転席から車椅子に移乗する

三角コーンをどける

車椅子から運転席に移乗する

車椅子を車に積み込む

という行程が必要ですが、これをこなすには、人によっては結構時間がかかります。その間、車は通行路に停めたままですから、あとから来た車の邪魔にもなります。
車椅子マークの駐車スペースを真に必要としていないのに、単に店の出入口に近いからというだけで、そこに停めてしまう人間がいることは知っています。でも、そういう人間は、三角コーンがあっても、ひょいとどかして停めてしまいますよね。だから、あの三角コーンは車椅子ユーザードライバーを阻んでいるだけなんですよ。
じゃあ、車椅子マークの駐車スペースを真に必要としていないのに停めてしまう人間のせいで、その駐車スペースを必要としている人が停められないという問題をどうすればいいか。
すべての駐車スペースを広くして車椅子対応にすればいいんです。
え? それだと駐車場に停められる台数が減ってしまって効率的じゃない?
でも、いくら効率を考慮すると言っても、車どうしの間隔をごく狭くしてぎちぎちに停めるような設計にはしないですよね? あくまで、二足歩行者が楽に乗り降りできる程度の余裕を確保した上での、効率性ですよね?
つまり、マジョリティに都合の良い範囲での効率性であり、マジョリティの都合しか考えずに効率が追求されているわけですが、そもそもそれがおかしいのですよ。

◆第八首
介助を受けるのは私なのに、なぜ一部の駅員や店員は、私にではなく同行者(友人、家族、ヘルパーなど)に話しかけるのでしょうか。
たしかに、車椅子ユーザーの中にはコミュニケーションを取るのが難しい人もいます。ですが、それは話してみなければ分からないはずです。
去年、「車椅子の風景その1」で

介助請う我を見れども我でなく連れに応える駅員もいて

という短歌を詠んだように、私から話しかけても私にではなく同行者に答える人さえいるのです。
車椅子ユーザーを(と言うか、障害者を?)コミュニケーションの相手と見なしていないのでしょうね。

車椅子の風景その1~その3は、こちらです↓


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