見出し画像

毒を吐くとそれは自らにまわっていく

「愚痴とか言わないんですか?」

何気ない会話の中で、ふとそんなことを言われたことがある。

「あまり悩みとかなさそう。」

─だから特に愚痴ることもないんでしょう?

そんな言葉が、副音声で聞こえてくるかのようだった。ああ、そういう風に思われるんだなぁって、しみじみ思ったのはこのとき。

人の感情に引きずられることはあまりないので、他人が愚痴を言ったりしてるのを聞いても「そうなんだね」としか思わない。

だって、それは自分ではない誰かの問題なので。解決するのは私ではない、愚痴をいう本人なのだから。

そのかわり、自分の感情にはとても引きずられやすい。ちょっと悪いこと、マイナスなことを言おうものなら、ずぶずぶと沼に沈んでしまう。

自ら口を開くとき、それは他人ではなく自分の問題だから。解決するのは誰かではなく、自分自身になるのだから。

悩みや不安を誰かに相談することも、そういえばあまりないように思う。それは相手を信頼してないからとか、心を開いてないからとか、そういうのとはまたちがって。

結局のところ、自分で乗り越えていく問題なんだろうなぁと思っているから。

ただ、そういった面を見せないことで、「なんで何も言ってくれないの」と不満げに言われたり、「八方美人なんじゃない?」と言われたこともある。

悩みをすべて打ち明けるのが信頼ではないはずなのに。
心の奥底をすべて見せるのが正解なわけではないはずなのに。

誰かに愚痴を言ったり、悩みを相談することで、たしかにモヤモヤした何かが昇華されるタイプの人もいるんだとは思う。
というか、大体の人はそうなんだろうと思う。

私も友人の愚痴を聞いたり、悩みを相談されることは別に気にならないし苦にならない。
親しい人ならば、力になれることはあるだろうかとも考える。

でも、中には私のようにモヤモヤした何かを心の奥底で眠らせて、時間と共に昇華されるのを待っているタイプの人もいると思う。

そういう人に「なんでも話して」「愚痴くらい言ってもいいんだよ」と言葉を投げかけても、逆に困らせてしまうかもしれない。

もしかしたら、あえてそうすることで自分を守っているのかもしれないから。
無理やりこじ開けようとすることは、かえって傷つけることになるかもしれないから。

愚痴を吐かなくても、毒づかなくても、苦手な人がいないわけでも悩みがないわけでもない。

ただ、言葉にしてしまうとマイナスな自分に引きずられてしまうんじゃないかって、恐れてる。

臆病者だけど、できることなら人にも自分にもやさしい人間でありたいから。

心を守る術を探した結果が、「愚痴を言わない」とか「悩みを表立たせない」ことにつながったんだろうなぁと思う。このあたりは、「気持ちをデザインする」に通ずるものがあるかも。

表面上は悩みがなさそうで人あたりの良いタイプでも、実はひっそりと、悩みを抱えていることがあるかもしれない。

そんなタイプの人とは、どうか心地よい時間を共に過ごしてあげてほしい。
言葉をかわさずにただ寄り添うだけでも、救われる部分はあるから。

サポートしていただいた分で創作・執筆活動の幅を広げていきたいと思います。