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「○○であるべき」という呪い


「私も苦労したから、同じ苦労をすべき」

「母親なんだから、子どものために自分の時間を犠牲にすべき」

世の中にあふれる「○○であるべき」という意見を耳にするたび、言った本人が意図していなくてもそれは「呪い」になるんだなとしみじみ思う。

他人の生き方に疑問を持つことは悪いことではない。
「そういう考え方もあるんだ。でも自分はこうだな」と、自分の考えを改めて知るきっかけにもなるだろうから。

でも、それを他人に押し付けるのはただのエゴだ。
○○しなさい、○○すべき、そんな風に外野から言われた悪意のない呪いは、無意識に人を追い詰めていく気がする。

不思議なことに、他人の生き方や考え方を、わざわざ自分の枠に当てはめて考える人が多いように感じる。

他人の人生なのに、「私はこうだったから、こうするのが普通」とか、「私はこうなのに、どうしてあなたはそうしないの?」とか。何故、自分のものさしで人をはかろうとするんだろう。

何がその人にとっての最善かなんて、結局のところ、悩んでいる本人にしかわからない。悩んで悩んで悩みぬいた末に出した結論に、「そんなのおかしいよ。○○すべき」なんて言われてしまった日には、心がぽっきり折れてしまうかもしれない。

世間体から見る「正しさ」は、果たして本当に正しいのだろうか。
苦しい正しさは、時として悩んでいる人を極限まで追い詰めるのではないだろうか。そんなことを、ふと思う。

自分が息苦しい思いをしてまで、世間が思い描く正しさを身にまとう必要はない。だって、それは他の誰でもなく自分自身の人生なんだから。

何が正しいかなんて、統計から生まれたデータの中にも、他人のエゴの中にも、答えはない。

「○○しなきゃ」も、時として自分を追い詰める呪いになりうる。無意識のうちに固定概念に縛られて、理想を追い求めるがあまり、がんじがらめになることも少なくはないと思う。

自分にも強要はしない。するのなら、許容を。
「○○しようかな。できたらラッキー」ぐらいのお気楽さが、ちょうどいいかもしれない。他人が許さないことよりも、自分が自分を許せないときのほうがしんどいと思うから。

子育ても、親子関係も、パートナーの在り方も、正解は他人の生き方の中にはない。
型にはまった生き方なんて、息苦しいだけだ。

自分の生き方に時々息苦しさを感じても、なんとか生き抜けるような自己流の「まじない」を探していこう。

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ちなみに、私のモットーは「生きてりゃなんとかなる」です。
生きている限り、やり直すチャンスはいくらでもあると思うから。
考えを改めるチャンスも、いくらでもあると思うから。

サポートしていただいた分で創作・執筆活動の幅を広げていきたいと思います。