「行う」までは面倒でも「行った」あとは気分が晴れることもある

タイトルの通りです。
小学校の洗礼のひとつ、「PTA作業」に参加してきました。

日曜日の朝早くから学校に行かなきゃならない。
子どもを見てもらうために実家などに頼らなきゃならない。
まだ知り合って間もない保護者たちと共同作業をしなきゃならない。
しかもまさかの肉体労働班。

ここまで条件が揃っていて、「ひゃっほう!PAT作業だぜ~!」と元気に出かけられるわけもなく。当日になってもやだな~早く終わらないかな~という気持ちで、とりあえず学校へ向かいました。

内容はなんてことはない。全学年のPTA保護者たちで学校の掃除をしたり、敷地内の草むしりをしたり、そういったこと。

予定より時間も早めに終わって、気候的にも暑すぎず、寒すぎず、ちょうどよかった。作業日和といえば、そうなのかもしれない。

行くまでは憂鬱でしたが、今振り返ると「行ってよかったな」という気持ちがじんわりと沸いてくる。

確かに体はへとへとだけど、疲れたけど、もう今にも布団に飛び込みたいぐらいだけど。

思わず、noteに書き綴ってしまうぐらいには自分の中で「悪くないかも」と感じる部分があったのだろう。

行う前は面倒に感じても、いざ体を動かしてしまえばなんてことはない。
むしろ、行ってよかったなと思うぐらい清々しい気持ちになる。
そういうことって、結構ある気がする。


歩み寄らないと永遠に理解はできない

体は疲れたし、ちょっとヘビーな話も聞いて精神的にもダメージを受けたけど、行事に参加したことですこーしだけ、学校に歩み寄れた気がします。

保育園や幼稚園は毎日先生と顔を合わせて会話ができるし、何かあったらすぐに連絡をくれるので、連携がとりやすい。
でも、小学校に入るとそうもいかない。

先生と直接話す機会どころか、顔を合わせる機会だってなかなかない。
それこそ、なにか行事があるときや、問題が起きたときじゃないと機会はめぐってこない。

クラスでどんなことが起こっているのかだって、自分の子どもを通しただけではわからない部分もある。わが子が大丈夫でも、親しい子が問題に直面していることだってあるかもしれない。

こちらが歩み寄ろうとしない限り、内情がわからない部分が多すぎる。
そういった意味では、PTA作業を通してほかの保護者と会話をする機会も大切なのかもしれない。

学校との連携の取れなさや、クラス内でなにか起きたときの責任の取り方など、このあたりもある意味、「小一の壁」になりそうだなとぼんやり思う。

ここで打ちのめされずに、見て見ぬふりをせずに、こちら側から歩み寄るっていうのはかなり重要になってくる気がする。

いざというとき、子どもを守れるように。
楽しく学校に通えるように。

どうしてもこういう場は気疲れしてしまうのだけど、なるべく前向きに取り組んでいけるようにちょっとずつでも、意識を変えていきたい。

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