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【現代】白井義男(1923~2003)熱き魂を持つ男

5月19日はボクシングの日である。遡ること66年前のこの日、日本が占領統治からの独立を果たした1952年。日本で初めてボクシング世界チャンピオンが誕生したのだ。敗戦にうちひしがれていた日本人に誇りと勇気を与えてくれたのは白井義男という男だった。


大正12年(1923年)、関東大震災の年に東京荒川区で生まれた白井義男は、強い男になりたいという一心でボクサーを志した。昭和18年(1943年)プロボクサーとしてデビューするが、戦況の悪化のため、白井も徴兵され、海軍航空隊に整備士として入隊していった。硫黄島の航空基地に行く計画もあったが、航空機が用意できず中止になった。硫黄島はその後玉砕した。

整備士として終戦を迎えたが過酷な戦地での生活で腰を痛めてしまい引退も考えた。しかし、昭和21年(1946年)に白井義男はリングにカムバックする。翌年までの成績は3勝3敗と苦しいものだった。そんな中、白井はある運命的な出会いをする。

昭和23(1948年)年7月15日、GHQのスタッフの一員だった生物学者アルビン・R・カーン博士との出会いだった。白井は、焼け跡で拾ったボロ布を自分で縫ったボクシング・シューズを履き、黙々とサンドバッグを叩いていた。それを見たカーンは「彼はチャンピオンになる!」とその才能を見いだしたのだ。

 この時から、白井とカーン博士はコンビを組むことになる。そして互いの熱い魂のぶつかり合いのなかで信頼と友情・愛情によって結ばれた真のパートナーとなっていった。

日本人の食糧支援のために来日したカーンだったので徹底的な栄養管理で白井の肉体改造を行い、ジャブとストレートを主体とし、攻防のバランスを重視した「科学的ボクシング」を叩き込んだ。白井のボクシングスタイルは打って避ける、避けて打つ!速効型の攻めの姿勢だった。

そして昭和27(1952年)年5月19日。4万の大観衆を飲み込んだ後楽園球場で、絶対的王者アメリカ人のダド・マリノと15回まで戦い抜いた。その間、白井は攻めに攻めた。打たれても、打たれても攻めた。その姿勢に国民は熱い声援を送り続けた。

判定により白井義男は世界フライ級新チャンピオンに輝いたのだ。日本で初めての世界チャンピオンだった。サンフランシスコ講和条約が発効して、日本がふたたび独立国になったわずか3週間後だった。敗戦に打ちひしがれ、自信を喪失していた日本国民に日本人としての誇りと希望、勇気を与えたのだった。

歴史を学ぶ意義を考えると、未来への道しるべになるからだと言えると思います。日本人は豊かな自然と厳しい自然の狭間で日本人の日本人らしさたる心情を獲得してきました。その日本人がどのような歴史を歩んで今があるのかを知ることは、自分たちが何者なのかを知ることにも繋がると思います。