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谷川俊太郎さんの「虫」

私が詩を読むきっかけになったのは、谷川さんの「虫」という詩を目にしたからです。最初の3行を読んで詩とはこういうものかと心を打たれました。

虫は明日死ぬだろう
だから虫は鳴いている
だから虫は歌っている

いきなり死ぬという言葉で、詩に出てくる言葉だと思いませんでした。
私は高速道路を使っていて、夏近くなる頃から暗くなると虫が車にぶつかり、虫の命を奪って車を走らせていることが嫌で仕方なく、遠回りすれば街中の高速ということもあり、虫があまりいない道路を走れました。しかし、
それでも虫はゼロではありません。自分が生きるために虫を死なせていると
思っていました。
「虫は明日死ぬだろう」寿命の短い虫もいれば人に命を奪われる虫もいます。すぐに死んでしまうという意味だと感じます。
「だから虫は鳴いている」「だから虫は歌っている」虫は死ぬということが判っている訳ではなく、生きている時に鳴いたり歌ったりすることなんだろうと思いました。

私は明日死なないだろう
だから私は泣いていられる
だから私は歌っていられる

これが続きの詩です。
「私は明日死なないだろう」ほとんどの人が明日死ぬなどと思わず、自分が明日も死なないだろうとも思わないでしょう。
「だから私は泣いていられる」人間には泣いている余裕があると言いたいのだと思います。
「だから私は歌っていられる」好きな音楽を口ずさみ、カラオケで歌ったり人間は楽しむことができると、この言葉から感じました。

だけど今日生きるのはおなじこと
虫も私もおなじこと
虫が羽をこするとき
私は歴史の本を読む

続きから感じたことです。
「だけど今日生きるのはおなじこと」どんな命にも今日を生きる権利があり、むやみに命を奪ってはいけないということ、魚や肉を食べていることはどうなんだろうと考えさせられます。
「虫も私もおなじこと」虫だって人間だって同じ命ですね。それに差を生ませているのは人間でしょうか。そう感じました。
「虫が羽をこするとき」虫が生きている間にすること、普通に動いたり飛んだりしている時、羽をこするのだと感じました。
「私は歴史の本を読む」虫が自然に生きるように、人は過去の本を読んで何かを探すことをする。でも未来を読もうとしていないのかも知れない。

隣の無花果静かにはぜた
谺よ谺よ帰っておいで
今日が明日にならないうちに

最後の3行になりますがこれには時を感じました。
「隣の無花果静かにはぜた」無花果の実が熟れてしまい割けたりすることは、植物の時間が先に進んでいる状態だと思いました。
「谺よ谺よ帰っておいで」とは、自分が発した言葉や命や時が戻ってきて欲しいと願い、今この時をまた大切にするためにと感じます。
「今日が明日にならないうちに」今日を大事に生きて欲しい、虫の命を奪わずに明日を迎えさせて欲しい、人の命も動物の命も今日を一生懸命に生きている。今日から未来に死ぬことを意識して生きることで、今日の命の有難さを感じて欲しいと思えました。

むやみに命を奪ってはいけないと思う自分と、車にぶつかって無くなる命を仕方ないと思う自分もいます。なるべくそうならないようにという、自分に都合の良い考え方をしてしまいます。自分の手で命を奪うことは駄目で、不可抗力であれば、誰かを何かを守るためならば、それは仕方ないという考えが生まれてしまうのかも知れません。戦争もそうなのかも知れません。

詩は読む人で感じ方が違います。ただ読むだけではなく、谷川さんの感情だったり起きていた事象だったりと、何かを感じて書かれていると思います。
私はこのように1つ1つに意味を感じて読むことが、詩というものなのではないかと思っています。



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