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家の音楽環境を整える(7)「今」とつながる音楽

Listudeさんは、奈良県立大学との土地に積み重ねられた層と感覚の広がりを体験する参加型プロジェクト「地奏」や「音欒 -OTOMARU-」を手掛けている。

「地奏 -CHISOU-」の一回目のアーティストは、以前調律ワークショップをして頂いた内田輝さん。クラヴィコードの奏でる音色は本当にかすかで、ライブが終わって日常に戻ると、耳が「閉じて」、途端に聴こえなくなる

耳を開いて音を受け入れると、「いい音」も「悪い音」もなくなり、楽器の音も空調の音も葉ずれの音も等しく入って来る。そして自分という存在が小さくなって、大きく、静かな耳だけが存在している心地になる。

耳を開いてくると色んな音が入って来るけれど、都会であの状態だと、大変なことになるよねぇ。

そう伝えると、「私たちはここで、都会でいるのと逆をやりたいと思った」と安奈さんは言った。

「昔は自然の音しかなかった。毎日毎日自然の音だけに耳を澄ませて過ごしている中に、人の奏でる鈴や笛の音が聴こえたら、涙が出そうにありがたい、古来の音楽は、そういうものだったんじゃないかと思うんです」

まちや林、神社をみんなで歩き、そこに存在する音に耳を澄ます。耳が安心して緊張をほどき、本来の機能を最大限発揮できる準備ができたところで!かすかに響いたクラヴィコードの音は、乾いた地面を潤す雨のように染み入っただろう。

そして火を囲み、現地の食材で作られた料理をともに口にする。

その活動は、「音欒 -OTOMARU-」にも拡張している。

はだしの足の裏にある地面と自分の身体の間に、その場で居合わせた人との間に、つまりは生きている「今」の延長線上にある音楽。

こうした人たちの活動に触れるたび、いつも自分が好きなクラシック音楽への思いが揺らぐような、居心地の悪い気持ちになる。多くのクラシックコンサートは常に外界から遮断され、咳払いも許されないような環境で開催される。もしホールごと別の場所に移しても、ほとんど支障がないだろう。世界中の演奏家が、何百年も前の人の楽譜を読み解くことに命をかける、そんなクラシック音楽のあり方が急に息苦しく、奇妙で偏った営みのように思える。

それが時にいかに自由で、すばらしい瞬間を見せてくれることを知っていたとしても。

他のオーディオメーカーのことを知らないけれど、この違いがそのまま、Listudeが目指しているものと、大手のオーディオメーカーが目指すものの違いを示唆しているような気がした。

そういった各メーカーの姿勢やそこに反映された機器の特徴も、オーディオ選びの要素のひとつとして、楽しめればよいのだと思う。

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