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夏の夜の夢

太極拳の師が「こんど手品と組み合わせたお茶会をするの」とおっしゃる。なんだそれ、と思ったが、脱出マジックに失敗し、水に沈む老師の姿がよぎり、夫と行くことにした。私は泳げるし、夫は力がある。私が年に一度主催しているかくし芸大会に、ようやくマジシャンをスカウトできるかも知れないという期待もあった。

神楽坂の指定された住所に行くと、民家に小さなのれんが掲げられている。人のお宅にお邪魔する感じなのだが、リビングを抜けいったん外に出るとそこにくぐり戸があり、4畳半のうすぐらい茶室につながっていた。

床には茶室の名を記した軸に、竜胆が活けられている。水色に撫子の柄の着物姿の老師がそっと入って来て、お菓子を配ってくれた。とらやの「若葉陰」。透明な琥珀製の中の草陰に、本物みたいな金魚が涼やかに泳いでいる。

頂こうとして手を伸ばし、はっと気づいた。「もうマジックは始まっているのでは?」この金魚・・次の瞬間本物になるのでは・・。正客と夫が食べたのを見届けてから口に運ぶ。美味しい。さすがとらやさんだ。

しかしこうなると何もかも疑わしくなってくる。仕事が早く終わったと言って、私よりずいぶん先に入った夫も仕掛け人では・・。一人遅れて来たこの女性も・・。そうする間にも老師はシャカシャカと手際よく人数分のお茶を点てた。お茶の温かさに疑う気持ちが緩む。

拝見に回ってきた棗には、オリーブを咥えたかわいい鳩が描いてあった。老師の手によるものだ。これを開けると鳩が!と警戒しつつ開けたが、無事だった。

結局なにごともなくリビングに移動し、懐石を頂いた。出張料理人が炊き立てのご飯を一文字によそって出してくれる。「さくらみそ」という初めて聞いたお味噌の味噌汁も美味しい。鱧の煮物椀、たくさんの季節の野菜と鯛の焼き物椀も本格的だ。茶室のオーナーかと思っていた背の高い男性がマジシャンのようで、一緒にいただく。はじめは警戒していたものの、日本酒をいただく頃に、すっかり打ち解けてしまった。

その後、手品の時間。あ、時間が区切られているのね。これまでの気苦労は一体。そしてマジックが始まった。お茶と手品の関係や歴史などを丁寧に説明しつつ、トランプのマジックが始まる。

選んだカードが移動したり、あらかじめ指定してあったものと一致したりする。開催前にもらった案内状にそれと分からぬよう答えが書かれていたりした。参加者がずっと押さえていたはずのカードが変わっていて、どう目を凝らして見ていても分からない。心の中で選んだカードを当たられた時はびっくりした。この分だと、宝くじも当てられるに違いない。

いつメリメリと顔を脱ぐのだろう、と期待したが、そんなことはなかった。脳内に、月曜に観た「ミッションインポッシブル」のイメージが残っているのだ。

分かったのは、私のくだらぬかくし芸大会に呼ぶレベルの人ではない、ということだ。聞くと、海外のマジックの大会にも出場しているそう。老師はどこでこんな人と出会ったのだろう。

会の終わりに、「はい、鳩はでませんでした」と鳩サブレーをもらった。疑う方向が間違っていたことが分かった後も、「これを開けると鳩に・・」と疑う癖が消えない。

帰り道、夫の横顔を見ながら、「この人が今顔を脱いで、トム・クルーズになったらどうしよう」と考えた。すごく嬉しいが、坊主頭の夫から髪をなびかせたトムが出てきたら、それだけで爆笑してしまいそう。だいたいIMFに高い鼻を低くする技術はあるのか。

予想したことはすべて起こらなかったが、予想しなかったことばかり起こった。この一夜の出来事全部、夢だったのかも知れない。すべてを疑うあまり、こうして変な風に脳がブレる余韻を残す、それがマジックだ。