落合陽一「ヌル庵:騒即是寂∽寂即是騒」
麻布台ヒルズの、落合陽一さんの個展へ。茶室体験のチケットを取って出かけた。
1.ステートメントと解説文
入ってすぐのところに、ステートメントが書いてある。落合陽一さんのNOTEにも記載されていたので、公開してもよい内容と判断し、下記に引用させて頂く。
何言っているのか全然分からないし、読む気が失せる。私は落合さんに対する予備知識を持たないが、衒学的(難しい言葉を使って、そうでもない内容をさも知識ありげに見せる)な人なのだろうか。そうでないのなら、私のような一般的な人にも分かるように書いて欲しい。
なので私はこれを即座にChatGPTに突っ込んだ。
ちょっと分かりそうな感じになった。しかし般若心経のサビ(参考)みたいな、「その喜びを分かち合おう!感動できる!」が消えてしまった。その唐突さが唯一響いた部分だったのに残念。そういうとこがAIの限界だ。
お茶室の説明部分もまた、難しい。
いちいちAIを介さないと理解できないのは、私の無知ゆえだろうか。
要するに、「茶を喫する」という行動に価値を見出し、楽しんだり感動することができるのは、私たちが育ってきた風土や培ってきた文化の土台を共有しているからこそ。この先計算機(コンピューターやAIなど)が生活の中に密接に存在する時代においては、計算機もおのずとその土壌を共有していくことになるでしょう。
くらいのことを言っているのかも知れない。あくまで私の理解である。
2.お茶会体験へ
時間になったので、お茶会体験へ。
まずお白湯を頂いて、いったん外の待合で、水の音を聴く。手を清めて、極彩色の映像を派手に反射する茶室へ。床の間はスピーカーのように伸び縮みし、そこから放たれた爆音の粒子が床の間のらせん状のオブジェにたった今物質化したような錯覚を受ける。
茶席という様式や菓子皿や茶碗が今と過去をつなぐ。茶釜の脇に身を潜めた小さな生き物は、ギャラリーのすぐそばの町の穴から炉を通って潜り込んだのかも知れない。茶室の外にかけてあった写真たちは、ただの白黒や色の点々のあつまりなのに、それが鯖の皮に見えたりイルカに見えたりする。どんな場所も、物も、そして私も、時間と空間、そして意味の関係性から厳密に逃れられることはなく存在する。
茶室の脇には黒電話があり、『オブジェクト指向観音』が電話でお答えくださる。「ヌル庵のヌルってなんですか?」と聴いてみた。はじめの方がちょっと聞き取れなかったのだけど、「すべての固定的な存在を持たず、すべてが相互に関連し合うその生の世界を表しているのです」と教えてくれた。
まあ私を含め多くの人にとっては、「分かんないけど若い人がなんかすごいことやってるみたい」というところが正直な感想であろう。なんかお洒落なとこ行ったからインスタあげとこ、という程度か。
最近のお茶世界をちょっとかじった人にとっては、SHUHALLYさんが10年前くらいにやってた感じに似てるな・・と思うかも知れないし、アート系の人にも「あの頃のリバイバルみたい」と思い出す昔のサムシングがある気がする。それは「すでに知っている事柄に当てはめてしか考えられない」という、私たちと原始的AIに共通する限界だ。いや、AIはそうした文脈を持たない分、先入観なく情報を取り入れることができるという点で、私たちはAIに劣っているかもしれない。
コンピューター技術が現代のレベルに発展した今だからこそ、こうした表現が生まれてきた、というところに価値があるのだと思う。
3.茶の世界と計算機
お茶の世界において、デジタル世界(計算機?)の可能性とはどのようなことだろう。
お茶を学ぶことは素晴らしい修養である一方、一つ学ぶごとにそれまで存在しなかった「正解」を生むことでもある。そしてそれが根拠のない正義にもつながる。人が集まることを前提とした活動である以上、上下関係や仲間意識がしがらみとなってべっとりとまとわりつく。
お茶にまつわるアレコレを、美しさも醜さといった解釈なくすべてデータに変換してデジタルに取り込めば、上澄みを掬い取るように、もう一度お茶の世界を再解釈することができるだろうか。
一方で、どんな芸事にも共通する、「それさえあればどんなに形がダメでも芸術と言えるが、それがなければどんなに形が素晴らしくてもぜんぶ無駄」と感じる「芸術を芸術たらしめている、何と言っていいか分からないアレ」を、計算機に込めることはできるのだろうか。私がお茶の場でそれを見たのはこの時だけだ。日々の修練、身体を通じていつのまにか会得するようなもの、そして何よりもそれを得たいと希求し、日々模索する過程で必然としか思えないような偶然に導かれるように得られるもの。そうした物事に対応するには、この世界でよく語られる「身体性」という言葉はどこか軽い気がする。
「あれ」とか「それ」とか言って、もう何言ってんのか分からなくなってきた。この界隈を一生懸命言葉にしようとすると、冒頭の、落合さんによるよく分からないステートメントに近くなってくることが、少し理解できる気がした。それが今回の私の個人的な収穫だったかも知れない。
3月までやってるみたいですよ。