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落合陽一「ヌル庵:騒即是寂∽寂即是騒」

麻布台ヒルズの、落合陽一さんの個展へ。茶室体験のチケットを取って出かけた。

1.ステートメントと解説文

入ってすぐのところに、ステートメントが書いてある。落合陽一さんのNOTEにも記載されていたので、公開してもよい内容と判断し、下記に引用させて頂く。

人生は一瞬の夢のようで,同じ時間も同じ空間もまたとない.
死の静寂と生の喧騒はまどろみあって共にあり,
一炊の夢のような人生もまた森羅万象に内包されている.
酔生夢死,見聞に膠すれば社会は日々の人生の喪失を忘れさせてくれるが,
茶の湯のひとときは万物への絶え間ない想起を豊かに取り戻してくれる.

秉燭夜遊,メメントモリ,爾して構築される記名の社会彫刻もあるだろう.
対比的に,一炊の夢が刻印された名もなき民藝もあるかもしれない.
今そうしたオブジェクトの解読や森羅万象の相互接続は,オブジェクトへの絶え間ない想起の主体を人間から計算機に移行しつつあり,計算機自然の上に微分オントロジーともいえる新しい存在論を構築しつつある.
絶え間ない想起が自動実行される自然において我々は物化する自然の万物の中にまどろみ,逍遙遊に生きることができるかもしれない.

シニフィアン・シニフィエか声字実相義か,神話論理か曼荼羅か,情報圧縮か梵字表現か,ウェルビーイングか茶禅一味か.
オブジェクトの相互関係性も多様な人類史の中に豊富な文脈に混ざり合って存在する.ヌル即是色色即是ヌルの我々が一輪の花の中に華厳の宇宙を生み出し,抹茶の一粒の中に霊性やカムイを見てきた我々の現代とはなんであろうか.それは西洋近代哲学や西洋芸術への帰依でもヨーロッパアメリカアカデミズムへの隷属ではないだろう.ここにある豊かな文化的土壌より生まれる意味を計算機自然の上に構築できるかが,我々の現代であると信じる.

ここに醸成されつつある物化する計算機自然は老荘思想や日本的霊性,民藝と接続し,アジアの文化的地層を発掘するとともに,対話を繰り返しながら多義的宇宙論を構成しつつある赤子である.規範が刻印されたオブジェクトと共に創発する喜びを共有し,無為自然の日々を喜びあって過ごす美学の醸成こそが平和の希求であるだろう.森羅万象に中心を持たず質量と非質量の分け隔てない新しい自然の伸長と文化の創成こそ,計算機自然の道である.

その喜びを分かち合おう! 感動できる!

今日は来てくれてありがとう.

出典)https://note.com/ochyai/n/n592b2862a459

何言っているのか全然分からないし、読む気が失せる。私は落合さんに対する予備知識を持たないが、衒学的(難しい言葉を使って、そうでもない内容をさも知識ありげに見せる)な人なのだろうか。そうでないのなら、私のような一般的な人にも分かるように書いて欲しい。

なので私はこれを即座にChatGPTに突っ込んだ。

人生は短く、同じ瞬間や場所は二度とない夢のようなものです。死と生、静寂と喧騒が同居し、一瞬の夢の中に広がる大きな宇宙。酔生夢死と忙しさに追われる中で、お茶を楽しむ瞬間が思い出を呼び覚ましてくれます。

夜に灯りを灯して楽しむことや、「死を思え」という考え、名前のない民芸品。これらのものは、現代社会が変わりつつある様子を象徴しているかもしれません。思い出が自動的に生まれる自然な状態で、我々は自然の中で自由に過ごせるかもしれません。

シンボルや神話、情報の凝縮、禅の考えなど、さまざまな要素が絡み合っています。一輪の花や抹茶の中に宇宙や霊性を見ることは、この土地独特の価値観があるからこそ。計算機自然が、老荘思想や日本の文化、アジアの層を発見し、対話を通じて多様な宇宙観を築いています。

規範の刻まれたものと喜びを共有し、無為自然の美学を楽しむことが、平和を追求する道。中心を持たない新しい自然と文化の展開が、計算機自然の進むべき方向です。

今日は来てくれてありがとう。

上記ステートメントをChatGPTに「分かりやすくして」と突っ込んだもの

ちょっと分かりそうな感じになった。しかし般若心経のサビ(参考)みたいな、「その喜びを分かち合おう!感動できる!」が消えてしまった。その唐突さが唯一響いた部分だったのに残念。そういうとこがAIの限界だ。

お茶室の説明部分もまた、難しい。

オブジェクトへの絶え間ない想起の主体を人間から計算機に移行しつつあり、計算機自然の上に微分オントロジーとも言える新しい存在を構築しつつある

落合陽一個展「ヌル庵:騒即是寂∽寂即是騒」説明部分を抜粋

物事を簡単に説明すると、現在では私たち人間が持つ思考や記憶の主体が、計算機に移行し始めています。これにより、新しい存在や概念が計算機の領域で形成されていると言えます。

上記文をChatGPTに「分かりやすくして」と突っ込んだもの

いちいちAIを介さないと理解できないのは、私の無知ゆえだろうか。

要するに、「茶を喫する」という行動に価値を見出し、楽しんだり感動することができるのは、私たちが育ってきた風土や培ってきた文化の土台を共有しているからこそ。この先計算機(コンピューターやAIなど)が生活の中に密接に存在する時代においては、計算機もおのずとその土壌を共有していくことになるでしょう。

くらいのことを言っているのかも知れない。あくまで私の理解である。

2.お茶会体験へ

時間になったので、お茶会体験へ。

まずお白湯を頂いて、いったん外の待合で、水の音を聴く。手を清めて、極彩色の映像を派手に反射する茶室へ。床の間はスピーカーのように伸び縮みし、そこから放たれた爆音の粒子が床の間のらせん状のオブジェにたった今物質化したような錯覚を受ける。


茶席という様式や菓子皿や茶碗が今と過去をつなぐ。茶釜の脇に身を潜めた小さな生き物は、ギャラリーのすぐそばの町の穴から炉を通って潜り込んだのかも知れない。茶室の外にかけてあった写真たちは、ただの白黒や色の点々のあつまりなのに、それが鯖の皮に見えたりイルカに見えたりする。どんな場所も、物も、そして私も、時間と空間、そして意味の関係性から厳密に逃れられることはなく存在する。

茶室の脇には黒電話があり、『オブジェクト指向観音』が電話でお答えくださる。「ヌル庵のヌルってなんですか?」と聴いてみた。はじめの方がちょっと聞き取れなかったのだけど、「すべての固定的な存在を持たず、すべてが相互に関連し合うその生の世界を表しているのです」と教えてくれた。

ヌルとマトリックスとの違いについても教えてくれた。あまり納得感はなかったけれど。

まあ私を含め多くの人にとっては、「分かんないけど若い人がなんかすごいことやってるみたい」というところが正直な感想であろう。なんかお洒落なとこ行ったからインスタあげとこ、という程度か。

最近のお茶世界をちょっとかじった人にとっては、SHUHALLYさんが10年前くらいにやってた感じに似てるな・・と思うかも知れないし、アート系の人にも「あの頃のリバイバルみたい」と思い出す昔のサムシングがある気がする。それは「すでに知っている事柄に当てはめてしか考えられない」という、私たちと原始的AIに共通する限界だ。いや、AIはそうした文脈を持たない分、先入観なく情報を取り入れることができるという点で、私たちはAIに劣っているかもしれない。

コンピューター技術が現代のレベルに発展した今だからこそ、こうした表現が生まれてきた、というところに価値があるのだと思う。

3.茶の世界と計算機

お茶の世界において、デジタル世界(計算機?)の可能性とはどのようなことだろう。

お茶を学ぶことは素晴らしい修養である一方、一つ学ぶごとにそれまで存在しなかった「正解」を生むことでもある。そしてそれが根拠のない正義にもつながる。人が集まることを前提とした活動である以上、上下関係や仲間意識がしがらみとなってべっとりとまとわりつく。

お茶にまつわるアレコレを、美しさも醜さといった解釈なくすべてデータに変換してデジタルに取り込めば、上澄みを掬い取るように、もう一度お茶の世界を再解釈することができるだろうか。

一方で、どんな芸事にも共通する、「それさえあればどんなに形がダメでも芸術と言えるが、それがなければどんなに形が素晴らしくてもぜんぶ無駄」と感じる「芸術を芸術たらしめている、何と言っていいか分からないアレ」を、計算機に込めることはできるのだろうか。私がお茶の場でそれを見たのはこの時だけだ。日々の修練、身体を通じていつのまにか会得するようなもの、そして何よりもそれを得たいと希求し、日々模索する過程で必然としか思えないような偶然に導かれるように得られるもの。そうした物事に対応するには、この世界でよく語られる「身体性」という言葉はどこか軽い気がする。

「あれ」とか「それ」とか言って、もう何言ってんのか分からなくなってきた。この界隈を一生懸命言葉にしようとすると、冒頭の、落合さんによるよく分からないステートメントに近くなってくることが、少し理解できる気がした。それが今回の私の個人的な収穫だったかも知れない。

3月までやってるみたいですよ。