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#188 複数の居場所を持つ重要性

いかがお過ごしでしょうか。林でございます。

最近、勝手にファンになってしまったKASHIWAさんの「マイキャリ」チャンネル。最近、Minority(マイノリティ)なキャリアと、My Carrierをかけて「マイキャリ」チャンネルという名前になったみたいで、ますます素敵です。

私も、学生時代の専攻が「人的資源管理」で、卒論も「キャリア」をテーマにしたくらい人の生き方やキャリアへの興味・関心が高いこともあり、毎回楽しみに聞いています。

先日の放送内容で「情報のインプットを始める前は、自分がいる環境にいる人の言っていることが正解だと思っていたが、外の世界の情報を取り入れ始めたら、いい意味で自分の環境に対して上から目線になれるようになった」という趣旨の話をされています。

詳細はこちらをお聞きいただければと思いますが、「ほんまそれな!」と共感しかなかった放送でした。この放送とも共通する部分も多いのですが、私なりに最近感じている「複数の居場所を持つ重要性」について、ご紹介したいと思います。

ひとつでは、多すぎる

大学1年のとき、生協の本屋で購入した、外山滋比古さんの「思考の整理学」。

かなり有名な本なので、読まれたことがある方も多いかもしれません。

この中で出てくる話で、当時ゼミの友人とも何回も議論し、今でも覚えているのが次のフレーズです。

ひとつだけでは、多すぎる。
ひとつでは、すべてを奪ってしまう

外山滋比古 「思考の整理学」

KASHIWAさんもご指摘されているように、例えば「1つの職場と家を往復し、たまに学生時代からの友人と会う」ような生活をしていると、「1つの職場」で正解とされていることが世の中全体の正解で、こういう考え方・価値観に自分を当てはめていかないといけない、という思考になりがちです。

しかし、「ひとつでは多すぎる」という逆説的な表現が示している通り、ただ一つの思考に囚われすぎてしまうと、周囲のことが見えなくなり、自分自身を追い込んで苦しめてしまったり、自分のやり方が社会全体の中で見ても正しいのだ、という独善的な思考に陥ってしまいます。

皆さんも身近で感じたことがあるかもしれませんが、Aというサイロ化された世界で起きている常識が、Bという世界の人にとっては全く理解できないものであったり、どうでも良かったりすることはありませんか?

当然、その常識や価値観は、過去の経緯があり、何らかの根拠や考え方に基づくものであるはずですから、全てを軽視すれば良いというものではありません。
ただ、人間というのは慣れる生き物で、「それって普通におかしくない?」と感じるような常識や価値観でも、長い間その環境にいると徐々にそれが当たり前になって、いつの間にか「何も感じなくなってしまう」のです。

以前、私がおかしいなと感じたのが、とある仕事でA社、B社、C社と複数絡んでいるプロジェクトがありました。
そこでやり取りされているメールや打合せのやり取りを見たのですが、「とにかく何とか他社に責任を押し付けようとする」「尖った言い方ばかりが溢れている」コミュニケーションが普通になっていて、強烈な違和感を感じました。

そのプロジェクトに携わっている人に個別に話をすると別に悪い人ではないのに、会社間の関係性になると、他責と尖った言い方が当たり前の環境になっており、そこに長くいる人はそれがおかしいことという感覚も麻痺しているように見えました。

「自分はこういうふうになりたくない」と思っていても、そこに長く身を置いているうちに、知らぬ間に自分にとってそれが普通になり、尊重できないと感じていた価値観に染まりきってしまっている。これが一番怖いことです。

だから、定期的に異動や転職などで自分の環境をガラポンすることは大切ですし、異動しなくても、担当する仕事を変えて関わる人を変えたり、社外の情報を本や音声などでインプットすることがとても重要なのです。
自分が感じている「当たり前」は本当にそうなのか?を点検することができます。

物理コミュニティと仮想コミュニティ

ネットが発達し、物理的に遠くにいる人とでも気軽にコミュニケーションができるようになりました。
実際の顔は知らず一度も会ったことがない人でも、その人が発するテキストや音声から、何となく自分に合っているな、というコミュニティを見つけることができ、とても革命的だと感じています。

私がここで重要だと感じているのは、自分の家族や一緒な職場で働く人いった物理的なコミュニティと、ネットをベースとした仮想的なコミュニティを適度なバランスで行き来するということです。

特に、仮想コミュニティは、80億人を超える全世界の人と繋がれる可能性を秘めているため、どこまでも深追いができてしまいます。SNSや、このnoteでさえそうだと思いますが、検索を続ければどこまでも情報にアクセスできます。

だから、この仮想世界が「正解」となってしまい、現実世界で起きているあらゆる事象がおかしいこと、という感覚になってしまうかもしれません。

ただ、私の考えでは、常に現実はあくまで物理的な世界にあって、仮想コミュニティは、現実世界をしなやかに生き抜いていくための知恵を付けたり、現実世界をより楽しんでいくための勇気をもらえる場所、という補助的な場所だと位置付けています。

外の価値観を知ると、目の前の違和感に敏感になる

音声で色んな人の話を聞いたり、本で色んな人の考え方に触れると、物理世界における目の前の違和感に対して、自分の意見として「それっておかしくないか?普通に考えて、こうした方が良くないか」ということが言いやすくなります。

以前社内で「これは企画部オーダーだから、現場側としては従うしかない」みたいな話が出た時に、「いやいや、別に同じ社内の話なんだから、企画部にオーダーの意図が分からない、と素直に言えばいいのでは?」と言ったら、「企画部にケンカを売るなんて、なかなか度胸がありますね」と言われたことがありました。

私としては全くケンカを売っているつもりはないし、度胸があるとも思っていません。
目の前の職場環境が、そもそも社会全体から見れば物凄く小さな世界だし、その小さな世界の中で分割された組織間でのコミュニケーションにおいて「こうするほうが良いのでは?」と感じたことを言うなんて超ちっぽけな話です。

でも確かに、このような感覚を持てるようになったのも、コロナ禍で外出制限がかかった時に、家にいながら他社のセミナーをオンラインで聞いたり、色んな人の音声配信を本格的に聞き出すようになってから、という実感があります。

また、社内や他社の経営層の話を聞く時にも、自分なりの考え方と照らし合わせながら聞くことができるようになりました。

ポジション的には高い人であっても、未だにコストカットの話ばかりしている人は、社会のことをあまり勉強していないな、とフラットに評価できるようになりました。
逆に普段インプットしている情報から自分なりに考えていることの延長線にある論理を展開している人には、「この人はよく勉強しているし信頼できる」と感じます。

このように、目の前の物理世界の1つだけの世界だけに身を置くと、「この人はポジションが高いから言っていることが正しい」と判断してしまうようなシーンでも、冷静に「この人は勉強している人かどうか」の目利きをし、自分の頭でフラットに評価できるようになります。

それでは、今日もよい1日をお過ごしください。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました!

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