自己紹介?

振り返ると、noteを始めてから形が整っている自己紹介をしてないことに気付きました。これから遅すぎると思われますけど、これからのフォローしてくれる方々のためと、今まで読んだりハートしてくれたりしたReaderの皆に、礼儀正しい姿を見せたいと思いました。さらに、新年なので初めからやり直そうという気持ちも持ってます。

それでー

1990年東京生まれで、4歳の時に家族とオーストラリアに移住しました。そこから小中校は地元の学校に通り、大学卒業するまで暮らしていました。

こう言うわけで、精神は日本ではなくオーストラリアの傾きになる育ちかたでした。家庭では日本語話して、お正月を祝いしていましたが、やっぱり友達と混じりたくなり、父母の文化と言葉から距離が見せ始めた。兄弟とも英語で話すようになってから、父親が怒り出すようになった。その繰り返し怒られた結果は、私と父がさらに離れるようになりました。言葉のみならず、考え方まで変わってきて、家庭環境にひび割れが見えてきた。

現在から考えたら、父親としては子供とコミュニケーションとれないことに確かに悔しいだろうが、怒鳴るまでやることはないと思います。しかし当時は、父親を恨み「父親なんかいらない」と考えてた。

しかし、父親の考えは一つ大間違いがあった。私は、オーストリア人らしくなりすぎと考えていたのですが、実際は私がオーストリア人らしいという気持ちはなかった。私は私で、国籍や民族主義に引かれたくなかった。

学校では浮かんでいた。群れ群れに興味も関心もなく、数少ない代わり信頼できる友人がいた。この片手で数える友達とは何でも話せる、お互い支える、丸に兄弟みたいに近い友達に縁を結べた。それでも、人嫌いと違います。普通は積極的で言葉と行為では人に親切にするように意識していました。

だからと言って、喧嘩はいつも避けることはなかった。私は突然腹が立つ特性があり、中学頃は殴り合いになったこともあった。言い訳ではないですが、その時も私が責められた方だったので、自身とプライドを守らなければいけないと信じて闘った。

こんな事件も兼ねて、周囲との距離が広がり、そして親友が引っ越しした際に丸っきりに一匹狼になってしまった。その時は、寂しさを飲み込んで一人の方がいいとカッコいいことを口にして、勉強に心をかけた。

第一希望の大学に入学出来て、それからお酒にハマりました。新しいサークルが立ち、毎週末パーティーに参加して、これが幸せだとと思いながら学生時代を過ごしました。

ここに大事なポイントは、オーストリアではお酒を過剰に飲む文化があるなか、それでも飲み過ぎだと呼ばれたことです。

しかし幸せと思いながら、その時にも表の裏に悲惨隠れていた。よく死にたいと思っていた。その時は分かりかねかったが、鬱症状でした。

希死念慮という言葉とは知らなかったものの、これはまだ普通だと思い込みました。しかし卒業の折にこれは普通じゃないかもしれない、と、これでは生き続けられないと考え出した。その理由と、就職が決まらない為に、来日することにした。

日本で、始めてに精神科医に相談した。その時から、双極性障害Ⅱ型と診断を受けました。

診断の結果にいろいろ鮮明になった。中学校の怒り、普通の人と交われないこと、アルコールの中毒、悲惨や死にたがる気持ち。全てが「鬱」か「躁」の症状と説明できる。

私全身が双極性障害と思ってはいませんが、診断を受けたことに、子供のときからアイデンティティーの悩みが解決できた感じもします。

ただの敏感だけではないこと、希死念慮は普通ではないと、これは精神医学で説明できるものだと思いました。

現在は、父親と連絡とっていません。それは過去の思い出よりも、相性がない理由もあります。日本に(帰ったとはいいずらいから)来てからは英語を教える仕事に勤めましたが、また別の出来事のことから、ミャンマーに行き、日本に帰り、ICUに入院しました。そして退院してから、無職で福祉支援で生存しています。

暇な時間多いため、noteを始めたと言えます。しかしこれをきっかけで、悩みや悔やしみを言葉で表すことにしたいでせす。もし読んでくれれば私にしてば嬉しいことです。

これからも過去と現在ことについて、書きたいです。それにつれて、今まで疎んでいた日本語を練習します。

よろしくお願い申し上げます。

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