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かりやど〔拾参〕

 
 
 
『 も う も ど れ な い 』
 
 

 
 
大切な家族
大切な人たち
 
そして
大切な人
 
みんな『大切』なのは同じなのに
どうしてこんなにも別なんだろう
 
 

 
 

「……何で朗、ここにいるの?」
 
 起き抜けの翠の第一声に、朗は安心半分、脱力半分だった。
(……あの労力は一体……)
 そう思わずにはいられない。それでも、忘れているのならその方がいい。あんなことは憶えていない方がいいに決まっている。何よりも、あんな姿を見たい訳がない。
 ──だから言わない。何も触れない。それが朗の考えであった。
 そのために質問には答えず、黙ってベッドを出ようとしているのに、何故か翠が張り付いて来る。朗にしてみれば、わざとであることは明白だし、完全に嫌がらせとしか思えない。
「……翠……離してください……」
 低い声で朗が窘めると、
「何でここにいるのか話したら、離す」
 翠が変な交換条件を出す。
「下手なダジャレはやめてください」
「ダジャレじゃないよ!」
 拗ねてふくれた翠が、勢いよく朗にぶら下がった。
「うわっ!」
 不安定な体勢のところにいきなり、である。さすがの朗もバランスを崩し、翠の上に倒れ込んだ。必死に腕をつき、そのまま潰さないよう身体を支えたが、ベッドの上なのであまり意味はなかった。
 下から朗の顔を見上げた翠が、首にぶら下がったまま悪戯っぽく笑っている。昨夜のことなど嘘のように。
「……それでどうしろと言うんです?」
 投げ遣りな朗の訊き方に、翠の顔がつまらなそうになった。
「だから言ってるじゃん。……それとも襲いに来たから恥ずかしがってんの?」
(……いつも人のベッドにもぐり込んで来るのは誰なんだ。大体、いつも襲われてるのはぼくの方じゃないか)
 理不尽なことを楽しげに言われ、さすがに朗もムッとする。
「……夜中に水を飲みに行こうとしたら……」
 一度、言葉をとめると、翠が黙って続きを促した。
「……何か落ちるような大きな音がして……」
「……それで?」
 翠が首を傾げる。
「……様子を覗いたら……」
「……覗いたら?」
「……あなたがアクロバティックにベッドから落ちてました」
「………………」
 翠の眉根が寄った。
「……仕方ないのでベッドに戻して部屋を出ようとしたら……」
「……ちょっと待って」
 構わず続ける朗。
「……ぼくの腕を掴んでそのまま巻き込んだんですよ、翠……あ・な・た・が」
「私、そんなに寝相悪くないよ!」
「……ぼくは夜中にいつも、かなりの攻撃を受けていますけどね」
「そんな訳ないよ!」
「あなたが自分で気づいてないだけです」
 不毛な会話を終わらせ、起き上がろうとした瞬間、不意打ちで翠の腕に力が入った。重力も相俟って、朗が引き寄せられる。翠の身体の上に伏した朗は、文字通り唇を奪われた。
「………………!」
 腕で身体を持ち上げると、洩れなく翠もぶら下がって来る。朗は再び力なく伏した。
 言い知れぬ脱力感。グッタリした朗の耳元に、身体の下から翠が呟く。
「お腹空いた」
「……今日は定期診察に行く日ですから、終わるまでは絶食です」
 朗がゆっくりと身体を起こしながら言うと、
「うそっ!?」
 本気で驚愕した翠の叫び。
「……嘘を言ってどうするんです。先生と春さんが待っていますよ」
 おとな気ないと思いつつ、朗の心の中に僅かな嗜虐心が湧く。散々、振り回された立場からすれば仕方ない、とも言える。
「……お腹空いた」
 空腹感と言うものは、食べられない、と聞くと更に増すものらしい。
「……診察が終われば、春さんの美味しい食事を食べられますよ。ごちそうを作って、翠が来るのを楽しみに待ってくれているでしょう」
 不貞腐れた顔で聞いていた翠が溜め息をつく。
「春さんのゴハンかぁ……しょうがない……ガマンするか……」
 だが、呟いたその顔は、翠にしては格段にやわらかい表情。
(……こんな顔も出来るのに……いや、本当なら、これが本来の美鳥の姿なのに……)
 堪らなく残念な思いに駆られながらも、朗は出かける準備を促した。
 

 
 その病院は、『人里離れた』と言う表現がぴったりの場所にあった。
 『病院』と言うよりは、見るからに『◯◯医院』と言った風情で、下手をすると『無医村に着任した診療所』のような印象である。実際、少数の地元患者を相手に細々と運営されているのだ。もちろん、表向きの話ではあるが。
 『院長・夏川崇人(なつかわたかひと)』と書かれた小さな表札。ほんの一部の関係者以外は知らないその内部には、大病院にも勝る最新の医療設備が整っており、それはただひとり『松宮美鳥の健康を管理するためだけに存在している』と言っても過言ではなかった。
 
 翠と朗が車から降りると、医師の格好をした壮年の男性と小柄で優しげな老婦人が、満面の笑みで迎えてくれた。後ろには看護師らしき女性たちが控えており、やはり嬉しそうに微笑んでいる。
「美鳥さま、朗さま、お元気そうで何よりです」
 院長の夏川と思しき男の挨拶に、ニヤっと笑った翠が悪戯っぽく見上げた。
「美鳥、じゃなくて、美薗、だよ。ただいま、お父さん」
 砕けた話し方。夏川が困ったように苦笑いを浮かべる。
「……そうだったな。……おかえり、美薗」
 その様子を微笑ましげに見ていた老婦人が前に進み出た。
「お嬢さま、お久しぶりです。お元気そうで……」
「春さん!」
 抱きつくと、『春さん』と呼ばれた老婦人も愛おしげに翠を抱きしめ返す。
「お嬢さま、少しお痩せになりましたか?」
「春さんのゴハンいっぱい食べるために抜いて来た」
 春さんが嬉しそうに笑った。
「お嬢さまの好物をたくさん用意しておりますよ。……デザートも」
「もしかして、カボチャプリン!?」
 興奮した翠の声に頷くと、「パイも焼いてありますよ」と付け足す。
「やったぁ!早く検査終わらそう」
「じゃあ、美薗。最後に私が診るから、まずは検査室に行って……その間に私は朗さまと面談だ。……看護師さんたちを困らせないように」
 夏川はさすがに翠の性格をわかっているようで、最後に釘を刺すことも忘れない。
 後ろ姿を見送り、診察室に朗を通すと、まずは計測や採血などを行なった。一般的な生活習慣病健診程度のものであるが、血液検査などの精度は高い。
 それが済むと、今度は応接室へと移動した。春さんが運んでくれたお茶を前に、ふたりきりで向かい合う。
「……朗さま。美鳥さまの最近の様子はどうですか?」
「……比較的、落ち着いていると思います。ただ昨夜、久しぶりにフラッシュバックの発作を起こしました。ここしばらくはなかったんですが……まだ数ヶ月に一度くらいはありますね」
 神妙な顔になった夏川が身を乗り出した。
「……昨夜の発作は……どれに対する発作だったかおわかりになりますか?」
 朗は昨夜のことを正確に反芻する。
「『誰?』と言う言葉が混じっていました。恐らく、最後に連れて行かれた時の件ではないかと思います」
 その答えに、夏川は顎に手を当てて頷いた。
「記憶は薄れても、何かの拍子に表層意識に揺り戻されるんでしょう。まして、あれからまだ二年……三年くらいですか?」
「……はい。朝になると本人は憶えていないので……まあ、忘れてくれてる方がいいのですが……正直、厄介な時もあります」
 朝方のことを思い出して苦笑いを浮かべる朗に、夏川も大方の予想が付いたのか顔を崩す。
「他に気になることは?視力は大丈夫そうですか?」
「……たまにダルさと言うか、疲れが出る様子があります。それと、やはり目も弱いようです。見えない状態になることは、最近はないようですが」
「薬はきちんと服用している様子ですか?」
「はい。それは食事の時に、ちゃんと飲むまで監視してますので」
 朗の返事に夏川は吹き出した。それを見た朗の方が驚きで目を見開く。
「……いや、失礼。若い男性の朗さまが、若い女性である美鳥さまの面倒をおひとりで見られるなど、さぞかし大変だろう、と思っていたところに……まるで母親のようなセリフを仰るものですから……」
 朗は再び苦笑した。
「……気まぐれですし、すぐに機嫌が悪くなりますからね。正直、自分がもうひとりいたら、と思うことはしょっちゅうあります……そう……」
 夏川の顔から笑顔が消える。
「……何度も思いました。……彼がいてくれたら……と……今でも、いつも思っています」
 ふたりは言葉もなく俯いた。
「……まあ、言っても始まりませんからね。何とかお姫様のご機嫌を取って行きます」
 朗が自虐的に言うと、夏川の口元にも微かに笑みが戻る。──と、その時、廊下をパタパタと走って来る足音。
「……終わったぁ!お父さん、早く終わらせて!お腹空いた!」
 いきなり扉が開き、前置きなしで翠が叫んだ。驚いて目を丸くした朗と夏川が、次いで顔を見合わせて吹き出すと、翠が不思議そうな顔をする。
「……よし。じゃあ、隣の診察室に行きなさい」
 笑いを抑えながら夏川が立ち上がると、翠が「はーい」と弾むように走って行く。
「……女性の内診なので、朗さまはこちらでお待ちください。……まあ、一応の建前です」
 見透かされた言葉に、朗は苦笑いしながら頷いた。
 
 漸く全ての検査が終わり、少し遅めの昼食の席に全員が揃って着く。空腹も限界だったようで、翠は春さんの手料を目一杯食べた。
「お嬢さま……慌てなくてもたくさんありますから」
 春さんが窘めても箸は止まらない。結局、翠はデザートも両方食べた。プリンもパイも。
「美味しかったぁ」
 満足気に言う翠に、春さんが嬉しそうに笑った。言葉には出さなくとも、夏川も口元をほころばせている。共に食卓に着いていた看護師たちも、満足気に仕事に戻って行った。
 食後のお茶を用意し、片付けをしていた春さんが、思い出したように翠の方を見る。
「……今日はこちらに泊まって行けるのですか?」
 寂しげな、縋るような面持ちの春さんが、恐る恐ると言った様子で訊ねた。翠が朗の顔を見る。予定の確認をしているのだ。
「明日の昼頃には出なければなりませんが……今夜は大丈夫です」
 代わりに朗が答えると、春さんの顔がぱっと明るくなった。
「では、明日の朝はお嬢さまがお好きな玉子焼きを作りましょうね」
「うん!春さんの玉子焼きが一番美味しいよ」
「嬉しいお言葉ですこと。ではお部屋の支度を整えて参りますね」
 三人が残った居間で静かな時が流れて行く。すると、夏川がふと思い出したような素振り。
「そうそう。先日、佐久田も来てくれました。財務の件も兼ねて健診に」
 佐久田と言うのは、翠の持つ資産の管理や運営を賄ってくれている会計士である。夏川とは同年代で、松宮家を通しての付き合いも長く、実は仲が良いらしい。
「佐久田さん、髪の毛大丈夫そうだった?お金の計算でハゲそうっていつも言ってるよ。私、最近会ってないんだ」
 翠がニヤニヤしながら訊ねると、夏川と朗が吹き出した。
「多少、薄くなってたかな?でも相変わらずパリッとしてたな」
 そう言う夏川は、ロマンスグレーになりそうなダンディな外見である。翠と「親子です」と名乗っても不審に思われない程度には。
「今度、佐久田さんにも会いに行かなくちゃなぁ」
「そうしてやってください。喜びますよ」
 ──と、ちょうどそこに春さんが戻って来た。
「まあまあ、楽しそうですこと。お部屋の準備が出来ましたよ。少しお休みになっては?」
「ありがとう、春さん」
 春さんの言う通り、休ませてもらおうと部屋に向かいながら、朗は何となく嫌な予感がしていた。案の定、部屋に行くと予感的中。朗は頭を抱えた。どうやら春さんの中に残っている翠のイメージは、朗の傍を片時も離れられなかった数年前のままになってしまっているらしい。つまり、一部屋しか用意してくれていないのだ。
「別にいいじゃん。ベッド広いし」
 事も無げに言い、翠はコロンとクイーンサイズのベッドに寝転がった。
(……まあ確かに、翠が高確率で潜り込んで来るから、八割九割は同じベッドで寝てるようなものだが……)
 だからと言って、最初から用意されていないと言うのも複雑なもので、朗は溜め息をつく。その様子を見ていた翠は、痛いひと言を朗に投げつけた。
「これからもう一部屋用意させるの可哀想じゃん。春さん、もう歳なんだから」
 確かに、と朗も思い直した。
 少し仮眠を取り、夜は再び談笑しながら春さんの手料理を食べ、そして、また眠る。終始、笑顔の翠に、このままここで暮らした方がいいのではないか──朗はそう考えずにはいられない。
 本当は、そうするはずだった。ひっそりと、穏やかに、その身を血で染めることなどなく。三年前の……いや、四年前のことさえなければ、『美鳥』のままでいられたはずの翠。
 腕の中で眠る翠の寝顔を見下ろしながら、止められなかった過去に思いを馳せる。
 前に進むしかないことは、わかっていても。
 
 翌朝──。
 春さんお手製の絶品玉子焼きを頬張る翠は、朝から機嫌がいいように見えた。
 それと反比例し、昼が近づくにつれ、春さんが萎れた花のように元気がなくなって行くのがわかる。それでも、「車の中で食べてください」と、おにぎりと玉子焼きのお弁当を用意し、昨日のパイも一緒に持たせてくれた。
 春さんにとっては、毎回が『最後かも知れない』別れなのだろう、と朗は思う。
「春さん、また来るから元気でね」
 そう言って、翠は春さんの小さな身体を抱きしめた。
「またプリンを用意してお待ちしていますよ」
 春さんが鼻声で返す。
「お父さん、また来るね」
「身体に気をつけて」
 夏川は翠の頭を撫でた。
「先生、ありがとうございました」
「朗さま、お気をつけて。よろしくお願いします。それと、新しいコンタクトと薬は用意出来次第お送り致します」
「はい。お願いします」
 いつものように別れの時。
 車が走り出すと、いつも翠は見えなくなるまで夏川と春さんに手を振っている。だが、ひとたび建物が見えなくなり、前を向いた時には、『美鳥』は『翠』に戻っていた。
 感情のこもらぬ硝子玉のような目が、行く先を真っ直ぐに見据える。
「……朗」
「……はい?」
「今週は堀内の葬儀に出るから」
「……はい」
 翠には留まるつもりなど毛頭ないようであった。
「……今度は副島の懐に入る。もうひとりの黒幕を引きずり出すために」
「……わかりました」
 
 春さんが作ってくれた弁当は、まだ仄かに翠の膝を温めていた。
  
 
 
 
 
 
 
 

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