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かりやど〔弐拾参〕

 
 
 
『 も う も ど れ な い 』
 
 

 
 
鳥の想いは別物なのに
鳥への想いも違うのに
 
壊したくないと願いながら
壊してまでも手に入れたくて
壊しそうなほど抱きしめる
 
 

 
 

 全てを打ち明けた夏川は、神ではない己を、それでも無力だと責め続けた。
 逆に、美鳥は全てを受け入れようとしていた。
 
 目を真っ赤にした夏川が部屋を去り、ひとりになった美鳥は、微かに扉の音が軋んだことに気づいた。
「……誰かいるの?」
 気のせいかと問い掛けてみると、
「……みど…………翠(すい)……」
 聞き覚えのある声が、ひどく躊躇いがちに答える。
「…………朗?」
 意を決して返事をしたつもりでも、朗の足は扉のところで止まってしまっていた。
「どうしたの?」
 美鳥の問いかけにも、朗は答える術を持たなかった。呼びかけられた焦りと勢いで声を発したものの、何を、どう言えばいいのかわかっていた訳ではない。
「………………?」
 不思議そうな顔をした美鳥が、「こっちに」とでも言うように、朗に向かって手を伸ばした。その手に導かれるように近づき、朗は腰かけて小さな手を取る。
「……朗?……どうしたの?何かあったの?」
「……翠……」
 躊躇いと、戸惑いと、迷いと。ただ、どうして良いのかわからない様子だけが伝わって来る。見えない目で朗を見つめながら、美鳥はひとつの答えに行き着いた。
「……もしかして聞いてた……?」
 図星である。あっさりと見破られた朗が俯いた。
「……ごめん……」
 立ち聞きをするつもりはなくとも、結果的に聞いてしまったことに変わりはない。
「……ううん……」
 美鳥が緩やかに首を振る。だが、少し思いつめた目。
「……朗……」
「……うん?」
 朗の手を握る美鳥の手に力が入る。
「……昇吾には……昇吾にだけは言わないでね……お願い……」
 朗の中には、納得半分、疑問半分。
「……昇吾に限らず、ぼくから他の人に話すつもりはないけど……何故、そんなに昇吾にだけは知られたくない?きみの健康管理に関することだし、本当なら全て、昇吾にだけは話しておくべきなんじゃないのか?」
 美鳥は俯いた。更に力が入った指が、微かに震えている。
「……だって、これ以上…………そしたら……一生、私のことで昇吾は……自分を全部使い切っちゃうから…………」
「………………!」
 朗は息を飲んだ。反射的に、握り返す手に力がこもる。
「……私が元気なら……私さえいなければ昇吾は自由になれる……だから……」
「……翠……」
 朗は葛藤した。
『きみがいるから昇吾も』
 言いかけて、言えない言葉。朗は軽々しく口に出来なかった。まして美鳥は、今の状況で一番危険なのは昇吾だと言うことを知らない。
 昇吾にしてみれば、美鳥は間違いなく生きる『希望』であり、何があろうとこの世に引き留める存在でもあった。美鳥が生きているからこそ、生きる、そして生きて来られた。
 だが、美鳥にとっては?と。
 肉体的にも精神的にもボロボロの自分、世話をかけている自分が、何よりも『枷』になっている感覚。それは昇吾の気持ちをわかっているからこそ、の。
「……昇吾には普通に幸せになって欲しい……こんな私なんて置いて飛んで行って欲しいのに……」
「……翠、昇吾は……」
「……わかってる。……私が一番わかってるよ…………ううん、ホントは私にしかわからない…………私が生まれた時から、昇吾がどれくらい私のために自分を使ってくれていたのか…………その上、今回のことでも……」
 美鳥の瞳から涙がこぼれる。
「…………いなくなってしまいたい…………こんな風になるってわかっていたら……あの時、死んでしまいたかった……!」
「翠!」
 握っていた手を引き寄せ、朗は美鳥を抱きしめた。シャツが熱い涙で濡れて行く。
「……それだけは言っちゃいけない。それは昇吾の想いも、先生や春さんたちの必死の想いも、全てを否定してしまう言葉だ。……そして、ぼくの想いも……」
 しがみついて肩を震わせる美鳥の耳元で、朗は必死に訴えた。
「……ここに辿り着いて、無事に昇吾と会えた時……そして、きみが生きていたと知った時……ぼくがどんな気持ちだったか知らないだろう?……どうしようもなく諦めていたものが、目の前に現れた時の気持ちを……」
 ニュースを聞いた時の絶望感。昇吾が行方不明になり、美鳥は死んでしまったのだと思ってから、何度も挫けそうになったことを思い出す。そのたびに『昇吾は生きている』と己に言い聞かせ、夢に出て来る美鳥に祈っていたことを。
「……医療は日々進歩している。今の状況もきっと変わって行く……何より……」
 朗は美鳥の額に唇を落とした。
「ぼくのためにも、生きていて欲しい」
 涙は涸れることなく溢れ続ける。
 縛りつける言葉、呪縛がなければ、この小さな鳥はどこか遠くに、見向きもせずに飛んで行ってしまうに違いない、と言う予感があった。そして、それよりも何よりも、自分に繋ぎ止めておきたい想いがあった。
 
 朗は、美鳥が昇吾には見せられない涙だけは、全て自分の胸で受け止めようと決めた。
 

 
「……朗……」
 早い夕食の後、リビングにいた朗に、昇吾が言いにくそうに声をかけた。
「昇吾?どうしたんだ?」
「これから本多さんと少し出かけて来る。佐久田さんのところで直接話さなくちゃならないことがあって……この療養所のことだから、夏川先生も一緒なんだ。そんなに遅くならないで済むと思うんだけど……万が一を考えて美鳥のことを頼んでおきたくて……」
「…………添い寝だけは勘弁してくれ」
 間髪いれずに朗が切り返した。
「わかってる。最近はワリと大丈夫になって来たから……ただ、夜、うなされたり、ひきつけ起こしたりしてないか、様子だけ確認して欲しいんだ。もし寝苦しそうだったら、手を握って頭に触れてやるだけで結構大丈夫だから」
「……わかった…………まあ、そのくらいなら……」
 気が重そうに、だが、朗が承諾する。
「……頼む……。敢えて夏川先生やぼくが不在だってことは言わなくていい。却って不安になると困るから、打ち合わせしてるとでも……」
「心得てるよ」
 昇吾の代わりに、朗が出かけてやることが出来れば良いのであるが、松宮財閥のこととなるとそうはいかない。いくら朗でも代替わりできないことがある。
 昇吾、夏川、本多を見送り、朗はひとりパソコンに向かった。一応、大学生、なのである。
 元々、成績の良かった朗は、一年で取れるだけの単位は取ってあり、それほど熱心に通ってはいない。と言うよりは、『大学生』と言う肩書き自体が朗にとってはカムフラージュなのだ。端から見たら不真面目ではあるが、これには一応、朗なりの理由があった。
 加えて、今はむしろ趣味と実益を兼ねた活動の方に力を入れている。この『活動』には、実は昇吾も巻き込んでいる。と言うか、昇吾が自分から巻き込まれて来た、と言った方が正しい。『同じことを出来るように教えてくれ』と。
 その話を昇吾が言い出したのは、この療養所の設備についての話題が出た時であった。
 
 夏川の城、とも言うべきこの施設は、環境・設備は最大限揃えているし、人員に関してもまた然り。表向きは普通の医療センターも兼ねているが、それはあくまでもカムフラージュであり、内部にいる人間は全て松宮のために動いている。それは、松宮財閥が解体しても動き続ける本多たちと同様の存在であった。
 もちろん名目上は、既に『敷島みどり』がオーナーではあるが。
 多少なりとも外部の人間を相手にしているため、尚更、内部のメンテナンスを怠る訳には行かない。そのため、機械などの入れ替えで業者が出入りする数日ないしは数ヶ月間、昇吾たちがここに留まるべきか、他の場所に退避しておくべきかを検討していた。移動することも危険だが、出入りする者が増えるため、顔を合わせるリスクも高くなるからである。
 
 画面を睨みながら、朗は昇吾が事件の時に見たと言う車のことを考えていた。
(……あの現場から去った、もしくは逃げた、と言うのなら、招待客だったはずだ。なのに、昇吾以外の頭数が合っている、ってのはどう言うことなんだ?)
 ──犯人──
 その言葉が朗の脳裏を過る。
(頭数合わせにされた人間がいる可能性もありか……?)
 それは即ち、昇吾が屋敷にいなかったことが、敵にとっては本当に最大の誤算だった、と言うことを意味している。
(手っ取り早いのは、昇吾が確実に死んだ、と思わせることだな。そして、そのためには……)
 朗の中に漠然としたものが浮かんだ。まだはっきりとした形にはなっていない、それでも確固たる方法が。
 
 一旦、脳をクールダウンし、朗は昇吾から頼まれていた美鳥の様子を見に行くことにした。
 

 
 美鳥の部屋の近くまで行くと、僅かに扉が開いている。食事から戻った時にちゃんと閉まらなかったらしい。
 隙間から様子を窺う。
「………………!」
 窓際のベッドに起き上がっているシルエット。薄く開いたカーテンから忍び込む月明かりが、美鳥のしなやかな身体の線を映し出していた。声をかけるか迷いながら、夢の中のようなその光景に見惚れる。だが──。
(どこかへ飛んで行ってしまいそうな……)
 夢心地を、急激に恐れが凌駕する。
「……眠れない?」
 気がついた時には声をかけていた。美鳥はゆっくりと扉の方に視線を向ける。
「……何か……月が綺麗な気がして……」
 確かに今夜の月は見事だった。しかし朗の目には、月明かりに浮かぶ美鳥の姿の方が美しく、そして儚く見える。
「……何てね。昼寝してるから眠くならない時があるんだ」
 返事のない朗に、ひとり言のように話しかけると、いざなうように手を差し出した。引き寄せられた朗は、美鳥の傍まで行くとその手を取り、ベッドに腰かける。
「今日の月は丸い?」
 美鳥が訊ねた。
「……満月かはわからないけど、かなり丸いよ」
 さすがに天文には然程の興味がなく、そこまで専門的には答えられない。
「……そっか……綺麗なんだろうなぁ……」
 少し残念そうな声。
「……必ず見えるようになる」
 朗の言葉に、視線を向けて小さく微笑むと、そのまま朗の目をじっと見つめる。実際には見えてはいないはずで、『目と思しき方に目線を向けている』はずであった。それなのに、逸らすことが出来ないほどに見つめられている感覚に襲われる。
(……まさか、見えている……?……いや、そんなはずは……)
 その時、朗の指先に触れる美鳥の手が、一瞬の躊躇う気配の後、アクセルを踏み込むように一気に握りしめた。
「………………!」
 心臓が大きく波打ったのを感じる。
 身動きひとつしないのに、目も見えていないはずなのに。美鳥の指だけが意思を持った生き物のように朗の指に絡みついて来る。
(…………まずい…………!)
 身体の奥底から湧き上がる衝動、それに逆らおうと必死になる理性。心の核に危険信号が灯る。咄嗟に手を離し、身を引こうとした時には遅かった。
 なめらかな頬が朗の頬に触れ、シャツごしのやわらかい身体が押し付けられる。しなやかな腕に首を捉えられ、目に見えない力が朗の身体を縛りつけた。
(……ダメだ……!)
 離れようとするも、己の意思に逆らい、身体は動こうとしない。正確には、意思に反した動き、しかしなかった。
(……ダメだ……!……ダメだ……!……今、触れてしまったら……!)
 そう思いながらも朗の手は、細く、それでいてやわらかな身体を抱きしめたがる。
(……きっと勘違いしている……ぼくのことを昇吾だと思って……ダメだ……ダメだ……ダメだ!)
 引き剥がそうと肩を掴んだ瞬間、朗の脳内は真っ白にスパークした。
 視界を覆う、月に照らされた白い白い肌、否応なしに鼻孔に侵入して来る、『あの時』と変わらぬ甘い匂い、そして──。
「………………!」
 押し付けられた、しっとりとした唇。
「…………ん…………」
 洩れる吐息。意思など何の役にも立たない腕が、美鳥の背中に回された。変わらないと思っていたその細い身体が、『あの時』とは明らかに違うものになっているのを感じる。
 夢にまで見た美しい鳥。更に美しさを増したその鳥が、己の腕の中に自ら舞い降りて来て抗えるはずもなかった。
 例え、昇吾と間違っているのだとしても──。
 美鳥に促され、溶け合うようにひとつになった影が倒れ込む。
 折れそうに感じたその華奢な身体は、意外なほどの存在感を以て朗の身体を受け止めた。
 
 もう、引き返すことは出来ない深みに沈んで行く。
 止まれない──心も身体も。
 
 それでも、激情に押し流されそうになる己を必死に抑える。小さな鳥を壊してしまわないように、堪えて、堪えて、それでも留まることは叶わない。
 
「…………なまえ…………呼んで…………」
 朗の耳元で、美鳥が喘ぎながら切れ切れに囁く。
 一瞬、動きを止めた朗は、口づけることで美鳥の唇も、そして自分の唇も塞いだ。そのままゆっくりと美鳥を追い上げて行く。
 
 意識が遠退きそうなほど求め合いながら、その夜、ついに互いに名を呼ぶことはなかった。
 
 
 
 
 
 
 
 

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