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かりやど〔拾弐〕

 
 
 
『 も う も ど れ な い 』
 
 

 
 
封じることは出来ても
なかったことには出来ない
 
仄かになることはあっても
消えることはない
 
 

 
 

「……小半さん……」
 小半の目は真剣そのものだった。
「ぼくではパートナーとして不足ですか?」
「……そう言うことでは……あまりに突然のお話なので……」
「……迷っていますか?」
 狙いを付けた獲物に優しげな顔で詰めて来る。後ろ手に鳥籠を隠して。
(……この男はやはり油断ならない)
 翠が今までに出会った人物の中では、格段に切れ味が鋭い。
 ──ただひとりを除いて。
「……小半さんにそんな風に言われたら、一も二もなく飛び付く女性は五万といるでしょう……」
「ぼくは、あなたは基本的に即断即決、と思っています。諾も、そして否も。逆に言えば、迷っているなら望みがある、とも……」
 かなり強引な論法ではあるが、衝撃が先に立ったとは言え、即決出来なかったことは事実であった。
 単に小半を籠絡することが目的なら、ここは乗っておくのも良い。しかし翠にとっては、それ自身が目的ではない。想定外の動きをしそうな相手に、必要以上に踏み込むことは良しとしていなかった。
 小半のような男は両刃の剣であり、本来の目的を果たす前に妨げになる可能性──操り糸が切れた時のリスクが高過ぎる。何より、迷っている様子を少しでも見せた時点で読まれてしまう。
(どちらに転んでおくべきか……)
 咄嗟の判断に迷い、予想通り、小半はその瞬間を見逃さなかった。
「迷っているのなら、ぼくを選んでください」
 小半の顔を見上げる。
「あなたとならうまくやって行ける。ぼくなら、あなたの全てを損ねることなく共に歩いて行ける。本心からそう思っています」
(……何て自信と強引さ……)
 翠でさえも息を飲んだ。だが、この男にはそれに見合うだけの力があることも確信出来る。だからこそ、警戒心が働くことも。
「後悔はさせません」
 その逡巡の間を読んだのか、小半は更に詰めて来た。強烈な自負に飲まれそうになる。
「……小半さん、私は……」
「……どうしても迷いが捨てられないなら、ぼくが迷いを拭い去ります」
「………………?」
 言葉の意味がわからず、翠は小半の顔を見上げたまま眉根を寄せた。ふいに腰を抱き寄せられる。
「………………!」
 声を上げる間もなく引き寄せられ、唇を塞がれていた。心の奥にまで踏み込むような強引な口づけ。
(……わざわざ事務所にまで来たのは、こうするつもりだったのか……!)
 今更、思い至る。
 背中をなぞっていた指が、ブラウスの背面ボタンを外して行く。行くところまで行く気でいるのだ、と。
 犯罪になりかねない行為。果たしてこの男に、ここまでリスクを冒すほどのメリットがあるのか。そして自分には?
(乗ってみるか?)
 もちろん、押し切られるフリをしてである。この際、副島サイドを内部から掻き回す計算をする。小半との関係はその後で考えればいい。状況に応じて。
 そうしている間にも、今度はファスナーを下ろされたスカートが、床に滑り落ちて行く気配。指が背中に入り込み、唇が首筋をなぞる。
 そのまま小半に体重を掛けられ、翠はソファに押し倒された。ネクタイを弛め、女から服を剥ぎ取って行く手際に、翠は「手慣れている」と感じる。
(……どれだけ自由になる女がいるのか……)
 揉め事回避を考慮すれば、お相手は玄人かも知れないが、それでも冷笑しそうになった。
 閉め切った室内。ふたりから発する熱。ソファの上で折り重なりながら、小半は狂おしいまでに翠を求めた。
 その様子が翠に、小半には何か欠けているものがある、と感じさせる。どこか自分と同じ匂いまでも。それは、まるで合わせ鏡のように。
(……この男は、どこか私に似ているところがある……?)
 それは勘でしかなかったが、その感覚が翠の中では決定打となった。身を任せながらも、翠の中では結論となる。
(……この男とは相容れない……心を委ねることはない)
 それはつまり、小半が望むようなパートナーには互いに成り得ない、と言う結論であった。
「……美薗……」
 だが、小半の熱い息が、名前を囁く声と共に耳に触れ、同時に翠の膝を割って入ろうとする気配を感じたその時──。
 呼吸と時計の音だけの空間に、切り裂くように響く鋭い音。
「………………!」
 小半の動きが止まった。目が見開かれる。
 携帯電話の音が、自分のものではないことを認識した翠は、小半の顔を見上げた。身体の動きを全てを止めていた小半が、強く目を瞑り、息を吐き出す。
 自分の身体を翠から引き剥がすように立ち上がり、背広の胸ポケットに入れている携帯電話に向かって行った。その背を見ながら、翠は床に落ちていたブラウスを身に纏う。
「……小半です……はい……ええ……」
 何もなかったかのように話している小半。翠は黙って様子を窺った。──と。
「……何ですって……!?」
 その声に、何かが起きたことだけはわかる。
「……すぐに戻ります」
 通話を終えた小半は、どこか躊躇いながら翠に向き直った。
「何かあったんですか?」
 翠の方から訊ねると、頷いて直球を放つ。
「……堀内社長が亡くなったそうです。……殺害されたと……」
「……堀内社長が……!?……一体、誰に……!」
「……どうやら、承子さんが……」
 何も答えない翠に、小半は「言葉もない」と勝手に判断したようで、手早く服を身に着けた。
「……申し訳ありません、夏川さん。ぼくは副島の所に戻らなければ……こんな状態で……本当に申し訳ない……」
 小半にしてみれば、最悪な程に中途半端であったろう。
「……私に何かお手伝い出来ることがあれば……」
「……ありがとうございます。しかし、ぼくもまだ正確な状況把握が出来ておりませんので……また改めてご連絡致します」
「わかりました。お気をつけて」
 翠が立ち上がると、小半が手で制した。
「……どうぞお構いなく……本当に申し訳ない」
 そう言うと、静かに部屋を出て行った。
 
「……堀内承子……」
 ひとりになった翠が呟く。
 しばらくすると、扉を開く音が聞こえ、朗が姿を現した。小半が出て行ったと判断し、朗が様子を見に来たのだ。タイミング良くやって来たのは、この部屋に人が出入りすると、別の部屋にいてもわかるようにしているからである。
「………………!」
 惨状を見るなり、朗は息を飲んだ。次いで溜め息をつく。
「……成功したんですか?」
 ほぼ全裸の翠が、身体の前面をシャツで覆っているだけの状態で朗を見上げている。
「……後で話す。とりあえず帰る」
 適当に服を着る翠に、朗がすっぽりと上着を着せると、丸っきり下の服が見えなくなった。
「……これ着るなら、服着なくて良かった」
 不機嫌そうな翠に、
「……服の着方も冗談も、大概にしてください」
 苛立ちを隠さずに朗が答える。
「……もしかして、朗、妬いてるの?」
「……行きますよ」
 翠の質問を無視した朗が、さっさと部屋を出て行く。拗ねた顔をした翠が、つまらなそうに後に続いた。
 
 結局、車の中でも、ふたりは終始無言であった。
 マンションに着くと、翠はそのままバスルームに直行する。
「……さっきもシャワー浴びたばっかなのになぁ……」
 文句を言いながらリビングに戻ると、ポットを持ったままの朗が、テレビの前で立ち尽くしていた。瞬きもせずに釘付けになっている横顔。ソファに腰を下ろした翠は、どこへともなく視線を泳がせる。
 テレビからは堀内殺害のニュースが流れ、実の娘が犯人である、とも告げていた。
「……馬鹿な……何故、堀内さんが……」
 茫然と呟く朗。
「……隅田の死に、堀内が一枚噛んでる、って、知っちゃったからなんじゃない?」
 それを聞いた朗は、翠の前に膝を着き、肩を掴んだ。
「……どう言うことです?」
「……今、言った通りだよ」
 感情のこもらぬ翠の声音が、朗の手に力をこもらせる。
「……翠……何をしたんです?」
 朗の訊き方が癇に障ったのか、翠は不機嫌な表情を浮かべて彼の手を払い除けた。
「……翠……!」
 再び翠の腕を掴んだ朗が、身体ごとソファに押さえ付ける。
「……翠……!……一体、何をしたんです!?」
「何もしてないよ!」
 苛立ちながら返した翠が、朗の腕を力任せに押し退けようと抗った。しかし、本気の力を外すことは出来ず、押さえ付けられたまま睨み上げる。
「……ならば、何故こんな……!」
「……扉の前で立ち聞きしてたのは気づいてた」
 朗が目を見開いた。
「……それだけで彼女が実の父親を殺すなんて……信じられない……」
 頭(かぶり)を振りながら呟く。
「もっと大切なものがあればやるでしょ。余程、父親のことが赦せなかったのか、隅田のことが大切だったんじゃない?」
「……だからと言って……まだこれから他の道があるかも知れないのに……!」
「……ないよ」
 絞り出した朗の言葉を、翠は一言の元に切り捨てた。
「何故、そんなことが言い切れるんです!?」
「だって、そうだもの!」
 叫んだ翠の顔を、朗は瞬きも忘れて見つめる。
「……もう、堀内承子には何も残ってないんだよ!だから道はふたつしかなかった!あのままだったらひとつしか残らないはずだった道を、ふたつ残して来ただけだよ!それでも、堀内承子にも父親を殺さない選択肢は残ってた!だけど、それを選ばなかった!それが運命だったんだよ!」
 息も継がずに迸った言葉。それを聞いた朗の脳裏に、昼間、翠が放った謎の言葉が甦る。
『道を残しておいた方がいいと思ったから』
(……あれは、こう言う意味……)
 朗は唇を噛んだ。
「……それとも、堀内承子がひとりで立ち直って、ひとりで強く生きてくとか思ってる?じゃあ、もし立ち直れなかったらどうするの?堀内承子にも誰かいる?もう誰もいないんだよ?助けてくれるひとも、大切な人も。それとも朗が一生、傍で見守ってあげるの?守ってあげられるの?……私のように」
 返す言葉が見つからず、朗は黙り込んだ。
「……別に堀内承子のために堀内を殺さなかった訳じゃない。手間が省けるならその方が良かっただけ。どっちにしろ私は、堀内建設の内部もメチャメチャにするつもりだったんだから」
 真っ直ぐに朗の目を見つめる。朗も微動だにせず見つめ返す。だが、翠は不意に視線を外し、
「……私が殺しておいた方が良かった?」
 訊ねるでなく言うと、朗の腕を外して部屋へと歩いて行った。力なく立ち上がった朗も、自分の部屋へと入る。
 扉を閉め、朗はその場に座り込んだ。自分の言っていることは綺麗事なのか。では、翠の言ってることが正しいのか。答えは出ない。
 確かなことは、翠の言う通り、自分には生涯、堀内承子を傍で支えるなど出来ない、と言う事実。己が出来ないなら、口にする資格も、人を責める資格もない、と言う事実。ならば、一体どうすれば良かったのか──。
 眠ろうとして、また眠れぬ夜。
 
 水を飲もうとキッチンに行く途中、翠の部屋の扉が完全に閉まっていないのか、微かに声が聞こえる。
「……………………」
 不思議に思って近づく。
「……翠……?……どうかした……」
「……誰……?……ここどこ……何するの……やだ……暗い……何も見えない……誰か……」
「……翠!?」
 扉を開けて飛び込むと、暗闇の中、ベッドの上で、天井に向かって必死に手を伸ばしている姿が目に飛び込んで来た。
「……やだ……誰か……見えない……ここどこ……朗……朗……どこ……朗……!……朗……!」
「翠!」
 駆け寄り、伸ばし切って突っ張っている手を握ると握り返して来る。それを確認し、身体を抱えて直に触れると、必死に縋りついて来た。過呼吸に近い症状。呼吸が乱れている。
「……翠……翠……!……ここにいます……!もう大丈夫……傍にいますよ」
 身体に触れながら、耳元で何度も繰り返して落ち着かせる。呼吸が正常になるまで。
(……あの時のフラッシュバックだ……最近は減って来ていたのに……)
 翠を抱き締めながら唇を噛んだ。
「……朗……」
 少し落ち着いたのか、声が小さくなって来ている。
「……翠……大丈夫。……ここにいます」
 辛抱強く囁きかける。
(……終わらないんだ……翠の中では。……明日には憶えていないのに……永遠に終わらない……)
 腕の中で、薄っすらと目を開けた翠の瞼に唇で触れる。朗の存在を、そして自分の存在を確かめるように、腕を回し、せがむ。
 朗は頬に触れ、額に唇を落とした。耳に、頬に、そして唇に。何度も啄むように口づけを繰り返し、少しずつ深めて行く。
「……ずっとここに……傍にいます……」
 合間に呪文のように囁いていると、安心したのか、腕の中の身体が少しずつ弛んで行くのを感じる。朗はそれに合わせて、優しく、そして深く、翠を抱いた。
 
 全てを委ねて来る翠から、全てを拭い去るように。
 
 
 
 
 
 
 
 

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