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エッセイ / トルコからの飛行機で84歳のばあちゃまの隣になって

この前、ヨーロッパ一人旅からの帰りの飛行機で、日本人のおばあちゃんの隣になった。飛行機はトルコから日本に向かうもので、おばあちゃんにもどうやら連れはなく、一人の様子だった。

エコノミーシートにちんまりと座った小柄なおばあちゃんは、髪はきれいに真っ白く、背中は少し曲がっていて、見るからに80歳を超えていた。「こんなおばあちゃんが海外に、しかもトルコに一人旅を…?」とびっくりしたが、おばあちゃんはなんだか険しい表情をしていたので、席に座った後もなんとなく話しかけずにいた(今思えば、険しい表情は不安の表れだったんだろう)。

飛行機が離陸して間もなくすると、日本に入国する際に提出する税関申請の紙が配られた。おばあちゃんは紙をじっと見つめている。隙あらばおばあちゃんに話しかけたいと思っていた私は、すかさず「ペンを持っていなければ、私のを使いますか?」と声をかけた。

するとおばあちゃんは答えた。「字が小さくて読めないんです。これはなんの紙なんでしょう?」

そこから私たちは少し会話をして、私がおばあちゃんのパスポートを拝借し、おばあちゃんの代わりに用紙を記入してあげることになった。パスポートに記載された生年月日から計算すると、おばあちゃんは84歳だった。

84歳で10時間を超えるフライトに挑むなんてすごすぎないか?一体なんでおばあちゃんはトルコにいたんだろう?好奇心でいっぱいになった私は、その後もおばあちゃんと色々な話をした。

聞くとおばあちゃんは、ルーマニアで働く息子に会いに行っていたらしい。行きは息子が日本まで迎えにきてくれ、帰りも乗り換えのトルコまでは見送りにきてくれたそうだが、トルコの空港からは一人で、ずっと心細かったそうだ。

おばあちゃんは飛行機に慣れておらず、英語も喋れない。そのため私は、機内で機内食が配られた際には客室乗務員とおばあちゃんの間で通訳の役割をし、飛行機を降りた後は、おばあちゃんの入国手続きや預け荷物の受け取りのサポートをした。

「本当、皆さんにたくさん助けていただいて、お恥ずかしいです。本当にありがとうございます」と、おばあちゃんは何度も申し訳なさそうに言った。

一方で私は、「申し訳ないなんて、恥ずかしいなんて、まったく思う必要ないのに」と感じていた。

話は変わるが、私が今住んでいる集落には、カナダ人の男性が住んでいる。彼は本当にフレンドリーで、集落の行事にも進んで参加する積極性を持っているが、日本語はまったくと言っていいほど喋れない。

一方で私の集落に住むのはほとんどが60歳を超える方々で、英語を喋れる人はいない。だからこの前、集落の清掃活動にカナダ人の彼が参加したときには、私が彼と集落の人々との通訳を担うことになった。彼はこれまでにも集落の人々とGoogle翻訳を使いながらコミュニケーションを取っていたらしいが、やはり通訳がいたほうがコミュニケーションはスムーズなようで、掃除が終わったあとのちょっとした飲み会のあと、カナダ人の彼にはとても感謝された。

そのとき私は、むしろ「あなたがいたから、私は自分の能力を活かす場を得ることができた。こちらこそ、ありがとう」という気持ちになった。

私は一応英語が喋れるが、それは今私が住んでいるような田舎ではまったくと言っていいほど使わない能力だ。でも、「日本語が喋れない」という欠けたピースを持った彼が集落にいてくれたからこそ、私は自分の能力を発揮する機会を得ることができた。

誰かに助けてもらったとき、私はすごく恐縮してしまうタチで、「迷惑をかけて申し訳ない」と思ってしまうことも多い。私に限らず、もしかしたら日本人の多くが、そう思いがちな性質を持っているのかもしれない。

だけど今回、おばあちゃんやカナダ人の男性を助ける側になってみて、「あなたが必要としてくれたから、私は自分の能力を発揮する場を得ることができた。むしろありがたいことだ」と心から思った。

そんなことを感じられたこれからは、誰かに助けてもらったとき、「申し訳ない」と後ろめたく思う気持ちが少し和らぐかもしれない。もちろん感謝はするけれど、「自分に欠けたピースがあったからこそ、目の前の人の力が存分に発揮されたのだ」と思えるようになるかもしれない。

そうやって私たちは、ある場面では誰かを助け、またある場面では誰かに助けられ、互いの凸凹を埋め合いながら、生きていくんだなあ。そうやってそれぞれが自分の個性を発揮する場が多様に組み合わさって、世界はできているんだなあ。


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