抜いた歯の行方|短編小説

※注意書き ほん怖などのような、スレッド形式のホラー小説に挑戦した際の過去作です。初めての挑戦でしたが、せっかく楽しく書き上げたものなので、noteでも投稿します。実際のスレッドの形式は省いてしまいましたが、それでも楽しんでいただければ幸いです。では。



 ひとつ、俺が実際に体験した、歯にまつわる話をします。
 初めての書き込みなので、多少おぼつかなくても、どうかお許しください。

 大学卒業と就職を機に、俺は生まれた県の隣の県へと引っ越しました。
 数ヶ月経って、やっと慣れたと思い始めた頃、奥歯辺りがじんわりと痛み出したのです。
 近場の歯科病院を調べて、診察してもらったところ、親知らずが原因だったことがわかりました。完全に埋まっているタイプだったので、先生からは「絶対に今のうちに取った方がいい」と念を押されて、半分気圧される形で大きな病院に行きました。
 紹介された先は口腔外科でした。
 担当になった先生から、抜歯の過程を細かく聞いてみたのですが、手術みたいで驚きました。全身麻酔で眠ってから、歯茎を切って、顎の骨を削って、親知らずを分解してから出す。終わったら糸で歯茎を縫い合わせる。一週間ほどの入院も勧められて、覚悟を決めなければと思いました。
 「大丈夫大丈夫、僕も看護師さんたちも痛くないように頑張るから」
 担当の先生は実に爽やかな笑みを浮かべながら言いました。若く見えたから、正直、不安でした。ただ、(失礼を承知で)年齢を伺ったら40代後半だったので、ちょうどいい時期の先生にあったのかもしれないと、ほっとしました。
 「よろしくお願いします」
 そう言うと、先生はまた笑顔で応えました。
 「うん、一緒に頑張ろうね」と。
 
 こうして、あっという間に抜歯を済まし、俺は一週間ほどの抗生物質とおかゆ生活を病院で過ごしました。その間、縫合糸は自然と溶けて、同時に腫れや痛みが安定していきました。最初の三日は地獄かと思いましたけどね。同僚と親もわざわざお見舞いに来てくれて、それぞれ一日は看病してくれました。
 実に順調な回復で、先生からも褒められました。
 「しっかり食べて、安静にして、歯の手入れも丁寧! うん、百点満点の患者さんだったよ!」
 無理してジョギングしたり、シャワーでは物足りず熱いお風呂に入ったり、隠れて硬いものを食べたりと、我慢ができない患者さんを何人も見てきたらしく、もうベタ褒めでした。
 俺としても気分が良くて、あの爽やかな笑みにつられて笑いました。
 今思い返すと、本当、気持ち悪いくらい綺麗な笑顔でした。

 退院して、仕事にも復帰できてから数日経つと、口の中に違和感を覚え始めました。
 具体的には、親知らずを抜いた箇所です。
 こう、むずむずと痒い感じでした。
 退院した際には、レントゲンとかの検査をして、全く問題がないと言われたのに。歯磨きの習慣も変わらず、言われた通りにまだ柔らかいものしか食べていなかったのに。
 念の為、口腔外科の先生の元に行って、問診をしてもらいました。
 「うーん、もしかしたら、久々のお仕事で疲れてるのかもしれないね? 疲れすぎると免疫力も落ちるからね、しっかりと栄養バランスが取れた食事を一日三回、そして良い睡眠を心がけなさいな」
 と、疲れによる違和感として言い渡されてしまいました。心配しすぎか、と自分に言い聞かせて、とりあえず、その日は帰りました。
 

 それから数日間、入院した分を引いた、残った有給で徹底的に体を休めることにしました。
 病院に行った次の日はなんともなかったので、先生からのアドバイス通りに、バランスのとれた食事に専念してみることにしました。まだ柔らかいものしか食べられませんでしたが、わざわざ栄養学や調理の本も買ってみたりして、工夫しながら過ごしました。
 初日から、なかなか有意義に過ごせたように思います。いつもより体も軽く感じました。本当にただ疲れていただけなんだと、あの時は思いました。

 しかし、二日目に、またあの違和感がぶりかえってきたのです。
 今度は、ズキズキと熱を帯びるように痛み、口の中が酸っぱくて、顎から首に渡るようなビリビリとした痒みで気がおかしくなりそうでした。口内の痛みというのは、体の痛みの中で一、二を争うくらい我慢ができないものだというのは本当のようです。
 一瞬、咳が出ちゃうくらいツンとした痛みが走りました。口を覆った手を見ると、ギョッとしました。

 飛んだ唾の中に、ほんのりと黒い液体が混じっていたのです。

 洗面台の前に走り込み、鏡で口の中を見ると、切られたと思われる歯茎部分がわずかに膨らんでいて、見えない切り目からじんわりと同じ黒い液体がにじみ出ていました。
 体内へと取り込むためにある口から、そんな得体の知れない物質が出てくるのをみて、心臓がまさにパニック状態に陥りました。その日は夕飯を食べず、市販の鎮痛剤を飲んで早めに寝ました。

 二度目の有給を使って、三日目。
 営業時間の始まりに合わせて、病院へと急ぎました。
 しかし、今回もまた腑に落ちない診断となったのです。
 「うーん、歯茎が腫れてるね、しばらく塩水かうがい薬でゆすいでみて。あと、歯の磨きすぎもあるかもしれないから、見直した方がいいね」
 黒い液体のことや、親知らずの箇所だけ妙に膨らんでいることには一切触れず、先生はいつも変わらないような調子でそう言いました。何度もそのことを言及しようとすると、いつも遮ってまた薄っぺらく同じ診断内容を繰り返すのです。
 故障したロボット、あるいはただの狂人。
 お世話になったはずの先生が、そう見えました。
 その間、いくつか気づいたことがありました。
 まず、先生の笑みが、実はかなり引きつったものであること。唇の端と目尻がずっと小刻みにピクピクと振動していました。
 次に、その爽やかさと糸目の後ろに隠れていた視線は、ずっと俺の口元に向けられていました。ずっと目を見て話していると思っていたので、それがなんだか変に思えたのです。
 そして、「歯」という言葉に対して見せる絶妙な反応。引きつっていたはずの口が、一瞬だけ自然と緩んで、顔のバランスが気持ち悪く歪んで見えました。
 変だ。
 とにかく変だ。
 だけど、「何が」「どうして」変なんだ?
 理由がいまいち掴めない気味悪さと、痛みからの疲れで、もう俺はこの先生とは関わりたくない。そう思うようになり、適当に切り上げて帰ることにしました。
 その夜は同僚と共に鍋パーティーをすることになっていて、有給中である俺の部屋でやることとなりました。いい気分転換なることを願って、俺は張り切って準備をしました。
 パーティー中は同僚たちの仕事の愚痴を聞いたり、ゲームをやったりしました。
 お酒やおつまみも入ってやっと楽しくなってきた時、またあの痛みが襲ってきました。この時、同僚たちにお酒が入っていたことがどれだけ良かったことか。

 焼けるような鋭い痛みの他に、おかしなことが身に起こったのです。

 心臓の脈がドクドクと早くなり、同僚たちの声やゲームの音がぐわんぐわんと大きく頭に響き、つまみや鍋の残り香が強く強く鼻につくようになったのです。

 だけど、一番俺が怖いと思ったことが、別にあります。

 同僚たちを見て思いついたことでした。

 それは、「にく」。

 彼らを一瞬、肉だと認識したのです。

 「その細い首を、ありもしないはずの長い長い牙で食いちぎり、骨を折ってその血をすする。」そう、思ったのです。

 俺は急いで自分の腕を噛み、トイレへと駆け込みました。
 また咳が出るようなツンとした痛みが走り、俺は便器に向かって咳き込みました。便器の中の水に、黒い物質がどろどろと浮かんでいました。
 同僚たちは、何も知らずに眠り、次の日の朝には帰りました。

 四日目、同僚たちが帰ったあと、なんだか全てがどうでもいいと思えるくらいの放心状態でした。朝も食べず、昼も食べず、じっと布団の上での転がっていました。夜になると「今はどういうわけかまだ症状がないけど、またあの痛みが出てきたら」と考えてしまい、なんだか気分が下がりました。
 手術をした意味は?
 先生の言うことを聞いた意味は?
 料理や歯磨きにこの有給は?
 色々考え始めたら、なんだかこの事態にムカつき始めました。
 そこで俺は、今までやってきたことの正反対をやることにしました。コンビニまでひとっ走りして、ありとあらゆるスイーツや菓子に清涼飲料を買って。家に戻ったら一つ前の世代のテレビゲーム機をつけて。一日中、深夜過ぎまで、ゴロゴロと未クリアのゲームを進めながらジャンクフードを平らげる!
 自暴自棄とはこのことです。
 しかし、これはこれでまた有意義に感じられたのが不思議です。

 不思議なことは続きました。
 悪い学生の頃に戻ったかのような日を過ごした次の日。第二有給期間の五日目。口の中はまったく痛くなかったのです。鏡の前でまた口内を覗き込むと、膨らみはまだありましたが、以前のような赤みはなく、黒い液体はが出る様子もありませんでした。
 綺麗さっぱり、快適そのものでした。
 もしかして、全部がノイローゼによる幻覚だったのか?
 そう思うくらい、なんともなかったのです。喜ばしい反面、突然のことで腰が抜けた感じもしました。
 ただ、あの先生が怪しかったのも事実だし、膨らみが残ってることも気になり、念の為に俺は他の口腔外科の先生に見てもらうことにしました。ちょうど、あの先生がいない曜日だったので、思い立ったが吉日ということで、すぐにまた病院へと向かいました。

 新しい口腔外科の先生は物腰柔らかないいおじさん、という感じでした。症状に関して話しますと、「はてさて」といった具合にとても不思議がっていました。今思うと、かなり馬鹿げたことを言っていたはずです。それでも先生は(紛らわしいので、この新しい先生をN先生、前の先生をB先生と書きます)、最後まで親身に聞いてくれました。するとN先生は、
 「ふむ、今まで聞いたことのない症状ばかりだねえ。とりあえず、確かに膨らみは気になるから、一度レントゲンを撮ろうかあ」
 と仰ってくれました。
 撮ってから現像するまで、少し待ったのち、またN先生の診察室へと入ると、N先生は大変困ったように眉を下げていました。椅子に座るよう促されてから、N先生は少し口ごもるようにして言葉をつむぎました。
 「えっとねえ、そのお、かなり不思議なことが起こっていてねえ。まあ、まず、落ち着いて聞いて欲しいんだけどもね? 君の取ったはずの親知らずのところに、歯が、あるんだよね」
 「えっ」
 思わずそう声を漏らしました。
 N先生は撮ったばかりのレントゲンを指さしました。前に下の親知らずがあった場所、二つ。抜歯後で何もないはずなのに、そこにはくっきりと歯のような輪郭を持つ物質が写っていました。
 「しかもねえ、形を見てもらえればわかるかもしれないんだけどねえ。この歯の形は奥歯というよりは、《《犬歯》》に近いのねえ。しかも、この歯髄ね? 生きてるみたいなんだよお。これは普通に考えて、本当にありえないことなんだよねえ……」

 なんということだ。

 俺は知らずに、約一ヶ月はこの塊を顎の中に収めていたというのか。

 膨らんでるということは、生きているということは、まさか、大きくなっているということなのか。

 こいつのせいで、俺は同僚たちを「肉」だと認識したのか?

 俺は一体、なにに巻き込まれたんだ?

 頭の中を非現実的な疑問がぐるぐると回り、俺は呆然とレントゲンを眺めました。N先生は俺の肩に手を乗せて、ゆったりとした口調で続きました。
 「落ち着いて。一つ聞きたいんだけど、君の抜歯をしたのは誰先生なのかな?」
 「え、えっと、B先生、ですけど」
 そう告げると、N先生はさらに困った眉毛をしました。すると、「ちょっと待ってねえ」と言って、携帯電話を取り出し、どこかへと電話をかけました。
 「はい、どうも、お久しぶりです。突然すみませんが、今から病院の方に来ていただけませんか?ええ、実は、B(苗字の語調が家系の方をさしてるように聞こえました)が絡んでる案件が。ええ。ええ。お願いいたします」
 通話を切ると、先生は今度はどっしりと構えた面で俺に向かって言いました。
 「ごめんよ、ある人を呼んだから、一緒に少し待っていてくれないかい? 君のその謎の犬歯に関わることなんだ」
 この状態をどうにか変えられるならと、俺は疑うことなくこくこくと頷きました。
 それくらい、本当に精神が参っていたのだと思います。

 数分経つと、診察室に男の人が現れました。こっちは、威厳のある顔つきのおじさんでした。年齢は、N先生より一回り上、という風に見えました。(このあとに知ったのですが、N先生とB先生は同期だったそうです。)
 「俺くん、この方は◯◯さん(古めかしい感じでよくわかりませんでした)。この地域の神社の神主さんなんだ。君の身に起こったことを、もう一度彼に話してもらえるかなあ?」
 一人でも多く真面目に話を聞いてくれる人がいるならと、俺は話しました。神主さんは渋い声でうんうんと相槌を打ちながら、最後まで聞いてくれました。
 「ちょっと聞いていいかい? まず、君が歯を抜いたのはいつ?」
 「今から約一ヶ月ほど前になります」
 「ふむ、それで、症状が出始めたのは?」
 「一週間半くらい前、でしょうか」
 「そうかあ。厳しいな」
 一体何が厳しかったのか、よくわかりませんでした。ただ、今思い返すと、それはきっと俺が化け物になるまでの期限のことだったのではないかと思います。
 N先生はまた困り眉をして、神主さんは眉間に更にしわを寄せました。
 「なんてこったい、こんな若いのが一週間ずっと痛みに耐えていたとは……」
 「あ、その、たまに痛くない日もありました」
 そう挟むと、神主さんはハッと顔をあげて俺に近づきました。
 「何? どうして痛くなかったか、わかるか?」
  まったくわかりませんでした。ただ、思いついたのは、四日目の朝昼はご飯を抜いて夜は菓子ばかり食べて寝なかったことでした。それだけが、いつもと違う出来事だったので。そう告げると、神主さんはその強面を緩ませて言いました。
 「よし、わかった。それなら間に合う。いいかい俺くん、まずはこれから三日間、断食をしてくれ。水は飲んでもいい。だが絶対に何も食べるな。どうしても駄目そうなら、飴を舐めるんだ。塩味とかそういうのじゃなくて、甘いやつをな。あと、住所を教えてくれないか、ちょっとあとで届けたいものがある」
 一気にわけのわからないことを言われた気がしましたが、とりあえず何か解決策がありそうということで、俺は住所を教えて、帰り道は飴を三袋と水を五本買って行きました。

 一切何も食べずに、神主さんを部屋で待ちました。
 コンコンコン、という扉を叩く音を聞いて、俺はすぐに玄関をあけました。神主さんでした。部屋にあげようと思いましたが、神主さんは大丈夫だと言って、ジャケットの懐から二つ、物を取り出しました。
 「まず、これ」
 そう言って渡してきたのは、数枚のお札でした。
 「これを、扉や窓の外側と内側、あと、冷蔵庫や食べ物を置いてる場所に貼っておきなさい。君の意識がまたおかしくなった時、君はおそらく栄養を求める。それを阻止して、断食を完成させるためだ」
 改めて、神主さんの真剣な表情を見て、俺は唾を飲み込みました。
 表現は優しいけど、きっと彼が意味していることには、もっと深くて関わってはならない何かがある。まだ何もわからなかった俺は、そう思いました。
 そして次に、お線香の箱も渡されました。
 「これは、飴では凌げない時のため。眠りを誘う効果がある。この三日間は、水と飴と睡眠で乗り切るのだぞ。辛いと思うが、辛抱してくれ。そうしたら必ず、君の身に起こっている異変の解決へと繋がるから」
 鋭い眼光の奥には、温かい情が感じられました。
 本当に、わけのわからないことばかりが身に起こっていた当時の俺からすれば、なんともありがたいことで、思わず涙を浮かべてしまいそうになりました。しかし、ここではグッとこらえて、神主さんに向けて頷きました。
 神主さんは笑顔を向けてくれました。
 「それじゃあ、三日後、迎えにくるから、それまで頑張ってくれ」

 こうして、三日間が始まりました。

 断食の初日は、はじめはなんともありませんでした。お腹すいたな、くらいで。気を紛らわすためのゲームや、実家から持参してきた漫画などもあって退屈しませんでした。
 しかし、初日の昼以降からは、思い出すのも憚れるくらいの苦痛が襲ってきました。
 空腹で胃の中は酸でよじれ、歯茎はズタズタに腫れて焼けて縮れ、顎からは骨がパキパキと砕けるような音が大きく響きました。

 ち、にく、ち、にく。

 外の音もうるさくて頭に響き、様々な匂いが強烈に感じられて、視界は虹色にぼやけては白黒に眩み、食を求めて暴れまわりたい過剰な意思に反して、手足は痺れて動けませんでした。

 血、肉、血、肉。

 途中からはそれしか頭になく、ちゃんと飴を舐めたのか、線香を焚いたのかすら、曖昧でわからなくなりました。

 そして、ある時ふと、意識がハッキリしました。
 もはや何も感じないお腹と、かすかに乾いた血のような匂いが混ざった口臭がきつけのように何度もぶり返してきました。痛みや他の症状は一切ありませんでした。
 どこかへ投げやった携帯を探して、日付を見ると、三日目が過ぎていました。
 部屋の中をもう一度見渡すと、飴の包みが散乱していて、燃えカスの山がこんもりと乗った皿がありました。
 しかし、驚くべきところはそれだけではありませんでした。
 部屋中に引っかき傷があったり、家具が倒れていたりと、とにかくめちゃくちゃになっていました。爪の間には固まった赤黒いものが挟まっていました。
 その中でぽつりと目立つ、綺麗なお札たち。
 ところどころ湿った場所もあり、口周りの乾いて固まった感覚から予測して、大量の涎が出ていたようでした。

 まったく身に覚えのない行動の痕跡にかなりたじろぎました。
 本当に、獣が暴れまわった後のようでした。
 これを自分が、知らぬ間にやったのかと考えると、ゾッとしました。

 すると、ドンドンドン! と扉を叩く音に心臓が一瞬止まりそうになりました。
 扉の向こうからは、知ってる声が聞こえてきました。
 「俺くん! ワタシだ、◯◯だ! 大丈夫かい?」
 俺は急いで、扉を開けました。神主さんでした。
 彼の顔を見るなり、俺はほっとして、その場に座り込んでしまいました。本当に、自分は想像以上に憔悴しきっていたようです。初めての断食だった上に、三日間は動き回っていたようですから。
 神主さんは俺を見て、最初は驚いた様子を見せましたが、すぐに俺の肩を持って支えてくれました。
 「よう頑張った! よう頑張ったな! あともう少しだ、これから病院に行くから、それまで少し休んでいなさい」
 力強くも優しい声でそう言って、神主さんはまた笑ってくれました。
 俺はお言葉に甘えて、そのまま意識を手放しました。

 少しして、俺は目を覚ましました。
 茶色のビニール製の革っぽいもので覆われた、細長いベンチのような上で横になっていました。部屋を見ると、医療関係のスタッフさんたちの控え室みたいな雰囲気の場所でした。
 人を探そうかと思ったところで、部屋のドアは開き、N先生と神主さんが入ってきました。神主さんは以前のセーターとズボンの姿ではなく、白い着物と紫色の袴に着替えていました。
 N先生は俺を見て、少し慌てた様子でいました。
 「たった三日間でこんなにやつれちゃって! 一回、身体検査をしないと!」
 そんなN先生を横にして、神主さんは冷静に告げました。
 「先生、申し訳ないのだけれど、そんな余裕はないんです。すぐに祓わないと、そもそも人間ですらなくなります。今はまさに、嵐の前の静けさなんですよ」
 さらりと重大なことを口にした神主さんを、俺は思わずガン見しました。俺の視線に気づいてか、神主さんは自身の頭をぎこちなく撫でながら言いました。
 「全てが終わってからちゃんと説明する。約束だ」
 「……絶対、ですよ」
 神主さんは頷いて俺と先生の二人についてくるよう言いました。N先生はしょんぼりした顔で、ちらちらと俺の体調に気を使いながらついていきました。

 連れて行かれた部屋は、手術室のような部屋でした。
 中に入ると、俺の部屋以上に可笑しな光景が広がっていました。
 科学的な白を基調とした部屋の中、同じ白なのに不似合いな神具が色々置いてありました。中にはひっそりとCDプレイヤーが紛れていました。部屋の真ん中には、拘束具のようなものが取り付けられた椅子がありました。そして、部屋の奥には、神社でお馴染みの赤と白の巫女服をきた女性がぽつりと立っていたのです。
 入ってすぐ、神主さんは俺を向いて告げました。
 「俺くん、これが最後の一歩だ。また辛い目に合わせてしまうことになるが、三日間の断食を乗り越えられた君なら、きっと今回も頑張れるはずだ。強い意志を持って、俺たちに任せてくれ」
 俺は応えました。
 「ここまで来たんです。絶対に耐えてみせます。よろしくお願いします」
 手堅く握手をしたのち、俺はなされるがままに拘束されました。
 「私は、ここでは手伝えられないだろうから、外で誰にも邪魔されないように手を回しておきますね」
 N先生はそう言って、俺に笑いかけてから部屋を出ました。

 一気に空気が張り詰めるのを感じました。

 「よし、準備をしろ」

 神主さんの低い声を合図に、巫女さんはテキパキと動き始めました。
 まず、CDプレイヤーを点けて、断食の時にいただいた線香とは色の違うものに火をつけ、白い陶磁っぽい瓶を持って俺に近づいてきました。
 「この中にある水を口に含んでください」
 凛とした声で告げられて、少しばかりドキッとしてしまいました。
 手は拘束されていたので、巫女さんに口の中に注いでいただく形となりました。
 ほんのりと苦いお水でした。
 「絶対に吐き出さず、また、飲み込まないようにしてください」
 念を押されて、俺はこくりと頷きました。
 「あと、こちらを」
 そう言って、巫女さんは俺の両手に人の形をした白い紙を一枚ずつ握らせました。形代、というやつだと思います。
 「絶対に離さないでください」
 また、頷きました。

 巫女さんは最後に、大麻を手にして、俺の後ろに回り込みました。
 一方、神主さんは俺の真正面に立ち、細く畳まれていた長い紙を取り出しました。
 準備は完了した模様でした。

 部屋の中は、とても静かでした。

 スピーカーから、角笛の音が響くまでは。

 聞こえた瞬間、全身に鳥肌が立ち、産毛が逆立つような感覚がしました。
 心は憎悪と嫌悪感に覆われて、気がおかしくなりそうでした。
 さっきまで気にならなかった線香の匂いは鼻に強く刺さり、鼻腔の奥が焼けるようでした。
 水は苦味を増し、吐き出したい衝動にかられましたが、残った理性で必死に耐えました。
 
 神主さんの低い呪文みたいな声がこだましました。
 巫女さんは大麻を激しく振り回しました。
 
 全身の骨が軋むように痛み出しました。
 この時、俺は確かに、

 「こいつらを喰い殺す」

 そう思ったのです。

 拘束具から抜け出そうとする身体には、あちこちに痣や擦り傷ができました。
 金具部分はガチャガチャと鳴り、自分のものとは思えないような唸り声が喉から出ました。

 苦しい、苦しい。
 腹減った。
 血と肉。
 血と肉を食わせろ!!

 頭の中の声が大きくなるのと同時に、二人の声と動きも勢いを増しました。

 自分のものではない声に精神を飲まれそうになった、その時。

 神主さんの、大きな喝が耳に届きました。

 その瞬間、口に含んでいた水が、まるで生きているかのように吹き出ました。色は真っ黒。そして、両手はもわっと熱くなり、握っていた形代が消し炭となって崩れ落ちました。

 俺の意識は、そこでぷつりと途絶えました。

 長い長い眠りから覚めたような、そんな感覚でした。
 また意識が戻った時、俺は口にいろんな管を繋がれていて、点滴も打たれていました。病院のベッドの上でした。
 ちょうど点滴を変えに来た看護師さんが気づいてくださり、N先生を呼びに行きました。
 N先生は俺を見ると、なんだか少し泣きそうに見えながら、
 「よかった、よかった……」 
 と漏らしたのち、
 「もう、大丈夫だよ。歯も全部取れたよ。もう、変なことは起きないよ。説明は、◯◯さんがあとでちゃんとしてくれるからね。今は、休もうね。お疲れ様」
 と言いました。
 優しくて温かい声に引っ張られて、俺は結局また寝ました。

 次に起きたのは夕方頃でした。
 ちょうど夕食が配膳される時間で、俺のところにも配られました。最初に抜歯した時と同じ、おかゆや汁物などの柔らかいものが集まった献立でした。
 食べる事に関してあんまりよい思い出が無かったので、最初は食べる事を渋りました。そこで、神主さんとN先生が訪ねてきました。まだ手をつけていない食事を見て、神主さんは、
 「ああ、もう、気にせずに食べても大丈夫だ。食べても何も起きないよ」
 と言ってくれました。N先生も、俺に栄養を取るように促しました。
 お腹の鳴る音に屈して、ひとくち食べました。淡白でいかにも入院食、という感じでしたが、その味はじんわりと深く舌と心にしみました。気がつくと、行儀なんてそっちのけで、食器を持って口の中にかきこんでいました。
 「こらこら、久々の食事なんだからゆっくり食べなさい!」
 N先生からお叱りを受けてしまいましたが、もう構わずに数秒で食べてしまいました。ため息をつかれてしまいましたが、N先生も神主さんも笑って見てくれました。
 張り詰めていた心も体も、緩んでいくのを感じました。

 落ち着いたところで、俺の身に何が起こっていたのか、やっとその真実を聞くこととなりました。神主さんは初めて会った頃のような渋い顔で話し始めました。

 「君が最初にお世話になったB先生はな、この地域の士族の子孫なんだが、その士族は呪いを用いて武功を納めてきた一族として有名だったんだ。当時、象牙の武器が重宝された時期があったのだが、獣の乱獲が問題となり、政府から制限が課されたのだ。B先生のご先祖様は特に象牙でできたものを好んでいたらしく、政府から直々にお達しが出たくらい狩っていたらしい。
 そこで、お得意の呪いに頼って、人から象牙をとる方法を編み出してしまったのだ。更に端的に言うのであれば、人を獣にする方法のことだ。神社に記録が残っててな。それによるとまず、死んだ獣の魂を呼び出し、骨のカケラにしばらく閉じ込めておくことから始まるらしい。時間が経てば、成仏できない獣の魂が邪悪なものとなるのだ。そして、邪霊を宿したカケラを人の口の中に埋め込めば、準備完了。それ以降は、人間で言う永久歯のように、しっかりと栄養を取らせて育ませればいい。君が体験した他の現象に関しては、獣になる際の過程だったんだろう。黒い液体だとか、そこらへんに関する詳しい記述は、残念ながら見つからなかった。
 かかる期限としては、一ヶ月。本当に、ギリギリだった。痛みが無かった日がなければ、もうとっくに出来上がっていただろうな」

 聞いていると、なんだか思考の感覚が麻痺していきました。
 おとぎ話のような出来事が、自分の身に起こっていたとは。
 「あの、ということは、さっきの儀式みたいなものは……」
 「ああ、悪霊となった獣の魂を追い払うためのものだ。根源はそれだからな。ただ祓うだけなら、もっと楽にできたんだが、進行度がギリギリだったのでな。色々と派手になってしまった」
 線香や角笛の音は獣の苦手なものであるらしく、とにかく苦手なもので邪霊を苦しめて、自分の意思で形代に逃げるように仕向けたかったとのことでした。俺の代わりとなった形代は役目を果たして炭となり、獣の霊は解放されて、無事に成仏できるようにしたと、神主さんは付け足しました。

 そして、どうして数日分、延期ができたのかが謎でした。神主さんは「記述がないから」とよくわからない様子でした。すると、N先生が突然話し始めました。

 「これは、現代だからこそできる予想なんだけど、媒体と獣の性質に関係しているんじゃないかなあ。媒体が骨のカケラで、いわば獣の歯となるわけだけど、歯に悪いことと言えば糖分。あと、動物にとって、人間が日常的に食するものは塩分や脂質が多すぎることが多いんだ。獣になっていくことに影響したんだと思う。
 つまり、基本的に健康に悪いスイーツや菓子がよく効く、ということ。成長に当たって、睡眠も大事な要素だから、君が夜更かしした日があったのがまた幸いしたんだと思うよお。」

 一気に流れ込んでくる情報を整理するのに、少しの間を要しました。
 N先生の話を聞いて、始めは「呪いなのに?」と思いましたが、よく考えてみれば納得できる部分もありました。昔の日本で身分制度があった頃ならば、貧しい百姓など位の低い人たちが格好の餌食だったということになります。衣食住を提供する代わりに、少し手伝ってもらう、と言った具合に。呪術は成功していたことでしょう。
 俺みたいな苦痛を味わった上、獣と成り代わり、その牙のためだけに殺されるなんて。悍ましい考えでちょっと吐きそうになりました。

 他に気になる点と言えば、ひとつ。
 「B先生はどうやってその方法を知ったのでしょうか? そもそも、一体なんでそんなことを?」
 知っていた理由については、神主さんの予想では代々伝わったか、あるいは神社に忍び込んで見たかのどちらかの可能性が高いとのことでした。
 N先生は二つ目の質問に対して、間接的にですが、こう答えました。

 「お互いに病院に勤め始めたあの頃からどこかずれていたように思うよ。いつもは仏頂面なのに、歯を見る時だけね、なんだかうっとりしていて、正直気味が悪くて。執着、していたのかな。ご先祖様みたいに。
 一時期上京して見なかったんだけど、最近こっちに帰ってきたの。久しぶりに会った時は、驚いたあ。あんなに若作りして、ずっと笑顔でいるんだもの! 何か嫌な予感がしてねえ。そしたら案の定、俺くんが来たというわけだよお」

 更に、昔からN先生は両親から、「B家の人には気をつけて」と言われていたようでした。
 「Bの苗字を持った子と同期になったと話した時、親からは、彼がらみの患者に不思議なことがあったら、神社に連絡をしなさいと言われていたんだ。今回の件に関しては、狂気的な行動だし、悪い縁を祓うって意味だったのかと思ったけど、まさかの想像を超える展開だったよ。医学に携わる身としては、信じたくない話だねえ」

 これが、神主さんとN先生が知ってる範囲での真実でした。

 本当に、二人には感謝しきれないほどお世話になりました。頭を下げて何度もお礼を申し上げました。気にしないようにと、そう言われました。
 更には治療費を安くしてもらってしまいました。
 本当に、お世話になりっぱなしでした。

 俺は、この出来事がありましたが、今でも同じ場所に暮らしています。
 引っ越したいと思ったことは、もちろんありましたが、それ以上に、もったいなかったのです。
 N先生と神主さん、その娘さんだった巫女さん。
 二回とも見舞いに来てくれた同僚たち。
 この繋がりが、もったいなくて。
 仕事にも慣れて、この地のことももっと知るようになりました。
 元の生活に無事戻れて、今は本当に、平穏に暮らしています。

 ちなみに、B先生はどうなったかといいますと、俺が退院した日に行方不明となったそうです。彼の診察室には、いくつかの歯のカケラが残されていたと、N先生は困り顔で言っていました。
 今はどこで何をやっているのか、考えたくもありません。
 ただ、俺のような被害者が出ないことを願うばかりです。

 最後までお読みいただき、ありがとうございました。