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人生とビジネスと言葉の綾 | 20世紀生まれの青春百景 #37

 加藤和彦さんの『それから先のことは…』ではないけれども、昨年の今頃はそれから先を何も決めていなかった。ただ、新卒で入った会社を二ヶ月で辞めて、地元に戻ることだけが決まっていた。非常に鬱屈とした気持ちで、ユニクロで買ったスーツを身に纏い、日々の限られた業務をこなしていく。最後の最後で仕事の楽しさをほんの少しわかった気がしたが、すでに後戻りは出来なかった。夢は夢でしかなかったし、理想は理想でしかないことを学んだ時間。失意のどん底の中で、わたしは地元に戻った。

 あれから一年が経った。コンビニで油の飛び散った揚げ物の弁当を買って、勇気と奮闘をささやかに祝ったのを昨日のことのように思い出す。

 そして、今。わたしは次の段階で再び分岐路に立っている。

 仕事の詳細については何も書けないし書かないが、率直に綴ると、会社から溢れてしまっているような気がしてならないのだ。余剰人員として、会社が扱いに困っている。そんな感覚が常にある。会社がわたし個人や能力を必要としていないし、わたしでなければならない仕事は特に見当たらない。他の誰かが十分に代行できる。そうなるとテンションを維持するのは難しく、組織にいる意義を感じられなくなってしまう。

 本来なら五月末を最後に退職する計画だった。しかしながら、個人的信頼から踏みとどまった。「この人を助けなければいけない」と思った。ほとんど転職が決まりかけていたし、いい職場も見つかっていたけれども、ここにいた方がそれよりも良い未来が創れそうだと感じたのだ。だが、いくつかの違和感が解消されたうえでの話で、あいにく違和感は解消されそうにない。人の性格がそう簡単には変わらないのと同じで、いち社員に出来ることは限られている。

 結局のところ、わたしはまた言葉の綾に付き合っているようなものだ。もっと明確に言ってしまうと、「人を騙しているような気持ち」になっている。今時によくある話で、資本主義的な感覚にまったく着いていけないのだ。完全に身体が拒絶反応を起こしてしまっているといってもいい。そうならないためには未来図と構想と世界観が大切なわけだけども、わたしたちには何も持ち合わせていない。それなら、「わたしたち」ではなく「わたし」の道のりを歩んで行った方がより健全だと思うんだ。あるいは、「わたし」が「わたしたち」を作っていくか。

 要するに、「起業・開業」か「わたし自身の哲学に合う会社を見つけるか」という二択問題に取り組んでいくわけだ。

 わたしにはビジネスの才覚はほとんどない。お金を稼ぐ才能も、そもそもお金に興味がない。きっと下手。片腕がいないとどうにもならない。やりたいことをやりたいだけであって、通貨制度だからそこにお金が必要なだけ。やりたいことが終わったら、そっといなくなる。何もしなくていいなら、何もしないよね。常に自分自身を満足させなければいけない。

 エッセイはごく個人的な文章なので、本音を書いてしまおう。言葉では人間が信用できないという割に、妙に義理堅いというか、信じ切ってしまうところがある。だから、変な人を信じてしまうし、よくわからない言葉を信じようと頑張る。でも、感性はずっと気付いていて、本人のいないところでは暴れ回っているから、相手が気づいた時にはその関係は修復不可能なところまで壊れ切ってしまっているんだ。スピードは色々あるよ、まあ。

 いずれにせよ、五月病とはまた違うんだよな。変な直感というか。感覚的に生きていくのが下手なのに、肝心なところで感覚に頼る。わたしはそうやって生きてきた。

 助けてくれ。このStupidな日常から。誰でもいいから、話を聞いてくれ。ねえ。

 P.S)やけに散文的なエッセイになってしまったが、いま思い詰めているかというとそうでもなく、少しずつ先に進んでいる。3月までと比べると、迷うことも特にない。

 2024.5.7
 坂岡 優

最後までお読みいただき、ありがとうございました。 いただいたサポートは取材や創作活動に役立てていきますので、よろしくお願いいたします……!!